太平洋戦争の末期、日本軍は飛行機で敵戦艦に体当たりする「特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。パイロットになった10代の若者が数多く犠牲になった。なぜ日本軍が特攻隊を生み出したのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から、2人の対談を紹介する――。
神風特攻隊
神風特攻隊(写真=大日本海軍/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

戦局を打開するために考案された「新兵器」

【半藤一利】マリアナ沖海戦が始まる四カ月ほど前の昭和十九年二月に、黒島亀人が、これからの戦は思い切った新兵器を導入しないと勝てないと、「特攻」用の兵器開発を発案します。徐々に海軍の頭が決死の特攻的な方向に向いていく。これがのちに回天とか震洋しんようといった人間魚雷となるのですが、この段階ではあくまでも兵器でした。

【保阪正康】侍従武官だった城英一郎えいいちろう大佐が、体当たり攻撃を目的とする特殊攻撃隊を考案して、軍需省の航空兵器総局にいた大西瀧治郎中将に提案していますね。これが昭和十八年六月末頃のことです。大西から「まだその時期でない」と退けられていますが。いずれにせよ、ここまできたら人間爆弾で戦わざるを得ないという意見は、各所から出てきていた。石川信吾がこう言っています。

マリアナ沖海戦が済んでからだったと思うが、かつて私が第二三航空戦隊司令官当時の岡村基春もとはる司令がやって来て、特攻攻撃の必要を力説した。そこで、私は「飛行機の特攻攻撃はこれがほんとに最後と云う時ならよい。さもなければ、必ずこれから軍紀が乱れてくる。俺は反対だが二階の大西(航空兵器総局次長)に聞いてみよ」と言った。当時は大西中将も私の意見に同調していた。

「特攻」が国策になった瞬間

【半藤】ですから「海軍は命令ではなくて、澎湃たる下からの要望によって、特攻に踏み切った」ということになるのですが、はたして本当にそうなのか。

「特攻作戦の父」大西瀧治郎
大西瀧治郎・海軍中将(写真=Felix c/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

昭和十九年六月、サイパン島を奪われてマリアナ諸島がいよいよダメということになり、天皇が何とか奪還できないかと下問します。大本営の結論は奪還不可能ということになったのですが、天皇は元帥会議を開くといって、伏見宮と閑院宮、永野修身と杉山元の四人の元帥を呼び、特別元帥会議を行いました。

閑院宮は病気で欠席するのですがね。そこで天皇が、なんとかサイパンを奪還しないと国の命運が尽きてしまう、というような発言をするのですが、陸海軍総長の説明を聞き、やっぱり無理だということになった。

ついにマリアナ諸島放棄を天皇も納得します。その後、天皇が退室して残った三人が話をしているときに、伏見宮が、「ここまできたら、もう特別な攻撃方法によってやるよりしようがない」ということを言うのです。

伏見宮という、現役の海軍大将による判断が間違いなくそこにはありました。それが六月二十五日です。その発言後、ほかの二人の元帥ももっともだと承知してしまう。それで軍令部も参謀本部も、かねてより検討していた「特攻攻撃」が認可されたと了解するわけです。