太平洋戦争末期、戦艦大和は沖縄への水上特攻作戦の途中で、米軍機の攻撃を受けて沈没した。なぜ大和は無謀な特攻作戦に利用されたのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から、2人の対談を紹介する――。
戦艦「大和」(「日本の軍艦」より)=1941年10月
写真=時事通信フォト
戦艦「大和」(「日本の軍艦」より)=1941年10月

アメリカは日本の戦力を過大評価していた

【半藤】昭和二十年三月十日未明の東京大空襲を皮切りに、B29の大群の日本本土焼尽夜間攻撃が始まります。三月十日夜の無差別攻撃だけで、東京市民の死者は八万九千人。私は猛爆撃の下を逃げに逃げて、辛うじて九死に一生を得ました。この作戦を発案し実行したのがアメリカ第二〇空軍司令官カーチス・ルメイ少将です。

【保阪】そのルメイに、あろうことか日本政府は昭和三十九年に「勲一等旭日大綬章」という最高の勲章を贈りました。決定したのは第一次佐藤栄作内閣。推薦したのは防衛庁長官だった小泉純也(元首相小泉純一郎の父)と外務大臣椎名悦三郎です。水面下でルメイへの授勲を運動したのは、当時参議院議員だった源田実だと言われています。

【半藤】これにはまったく開いた口が塞がりませんね。

【保阪】アメリカの戦略爆撃調査団の報告資料を読んでいて気づいたことですが、アメリカは、日本の戦力を途中から過大評価するようになるのです。初めは舐めてかかっていたのですけど、これだけ激しい抵抗ができるということは、自分たちが掴めていない戦力をどこかに隠しているに違いないと思うようになる。傍受によって知り得たさまざまな数字も実は見せかけのもので、本当の数字は隠しているに違いないと。それが過大評価につながっていきました。日本の力を誤解するようになっていたのです。

温存は海軍の恥…戦争末期に浮上した「戦艦大和」の問題

【半藤】アメリカの誤解。それを決定的にしたのが昭和二十年一月に始まった硫黄島の戦いだと思います。数日で占領するつもりだったのに予想外の激しい反撃にあって二万一千人を超える死傷者を出すにいたってしまう。太平洋戦争中屈指の大激戦を経て、「日本の力を見くびってはたいへんだ」という認識になった。これが過大評価につながったのではないでしょうか。

さて、アメリカ軍の本土上陸間近となると、海軍中央では、巨額の国費をつぎこんでつくった戦艦大和をどうするかという問題が浮上するんです。

万が一賠償金代わりに取り上げられるようなことになったら海軍の面目が立たない。そこで、本土決戦に備えて陸に揚げて砲台の代わりにしたほうがいいという意見まで出てくる。そこで軍令部にいた強硬派、殴り込みの好きな神重徳が沖縄特攻に出すことを猛烈に主張した。

【保阪】大和を温存して負けたとあっては海軍の恥だ、というような意見もあったようです。まったく成功の算がないのに大和の出撃が決まってしまいました。

【半藤】ですから、昭和十九年十二月に第二艦隊司令長官となった伊藤整一は、大切な将兵のたくさんの命をそんな無謀な作戦で失うわけにはいかない、とこれに抵抗したんです。