「艦隊派」と「条約派」による主導権争い
【保阪】これまで海軍の通史において、軍令部令改正のことは詳しく論じられてこなかったように思うのですが。
【半藤】おっしゃるとおり、あまり重要視されていませんね。五・一五事件について力を入れて書く人は多いのですが、軍令部令改正はたいがい素通りなんです。
すでに触れたとおり、新しい「軍令部令」と「海軍省軍令部業務互渉規程」が制定されたのは昭和八年(一九三三)九月二十六日。同年十月一日から施行されました。
斎藤実首相は、「明治以来の伝統を変更するのは面白くない」とこれを批判し、鈴木貫太郎侍従長は「現状維持がよい。参謀本部と同様にするのは海軍にとって危険を伴う」と言って警鐘を鳴らしていた。つまり海軍の長老二人は猛反対だった。それを押して艦隊派が強行したわけです。軌を一にして人事も入れ替わった。
海軍省の寺島健軍務局長は九月十五日付で局長を辞めさせられて練習艦隊司令官となりました。後任は吉田善吾です。おなじく井上成美軍務課長は、九月二十日付で横須賀鎮守府に異動となって、十一月十五日に練習戦艦「比叡」の艦長となって外に出されてしまった。後任の軍務課長は阿部勝雄です。
ついでに言うと、山梨勝之進が予備役になったのが昭和八年三月、左近司政三が昭和九年三月、堀悌吉は昭和九月十二月、という具合に、軍令部令改定を契機に邪魔者は全部おさらばと、こういうふうになったのですね。一気に海軍を艦隊派が制したわけです。念のために申しますが、予備役・後備役への編入は、会社でいえば退社、クビと同義です。
海軍軍令部の大変革
【半藤】これ以後どういうことになったかということが大事なのですが、海軍大臣の選任は、前任者が後任者を推挙して、その上で伏見宮軍令部総長様の同意を得なければいけないということになりました。
海軍省の高級人事、軍務局長や課長なども伏見宮様の同意がないと任命できない。連合艦隊司令長官も、というのが不文律になります。これが要するに昭和八年から九年にかけての、海軍内部の大変革でありました。海軍善玉論の文脈のなかでは、海軍軍令部令改定はまったくと言っていいほど触れられて来なかった。
しかし、これこそが重要なターニングポイントだったのです。
それに伴って軍令部から艦政本部に、「新型戦艦の基本計画」というものが提出されたのが昭和九年十月。軍艦は艦政本部というところでつくるのですがね。「戦艦大和」という名前こそまだついていませんが、その計画というのは、簡単に言うならバカでかい軍艦を四隻つくるというものでした。
もう海軍は、ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約などには縛られないぞ、と。それらを破棄し桎梏から脱出し建艦に邁進する、今後は自由にやっていくぞ、ということを決めたわけです。