大和型戦艦建造計画を担当した技術将校
【保阪】建艦のことについては、福田啓二がしゃべっていますね。福田啓二は艦政本部で、大和型戦艦建造の基本計画主任となった人です。
昭和一二年から各国海軍の無制限製艦競争が始まる形勢にあったが、我が国は到底量を以ってしてはアメリカに追随出来ないので個艦性能の著しく優れた超大型艦を造ってアメリカをノックアウトしてやろうと云うのが狙いであった。それで主砲は断然一八吋砲を採用した。我が建艦の途中でアメリカが気付いて真似をしても五ヶ年位は我方が優位を保ち、且つアメリカはパナマ運河の制約を受け、一八吋砲多数を搭載する大艦を造ることが出来ないと云う点で我に分があった。
たしかに福田のような技術将校としてはこの上ない面白い仕事だったとは思います。腕まくりして建艦に当たった感じが伝わってくる。
【半藤】私はこの人に会っているんです。昭和三十年(一九五五)の文藝春秋十一月号に福田啓二名の手記、「戦艦大和いまだ沈まず」が載っていますよ。私が聞き役になっています。福田啓二はまさに戦艦大和の基本設計の大元締めでした。福田の話で私はいまでも覚えていることがあるんです。
当時航空本部長の山本五十六が福田のもとに来て、「一生懸命やっている君たちに水を差すようで悪いが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空が大事で大艦巨砲はいらなくなるんだよ」と言ったというのです。
エネルギーが石炭から石油に変わることを見越していた山本五十六はすでにその頃から、つぎの戦争の主力は航空機、航空戦が戦いを制するということを確信していたのです。
「完成すればアメリカ軍に勝てる」という確信
【保阪】戦艦大和の設計には軍令部がかなり注文を出していたようですが。
【半藤】実はね、戦艦大和建艦を提起したのは石川信吾なんです。石川信吾という人は五・一五事件の前年の昭和六年に、「大谷隼人」というペンネームで「日本之危機」という題の論文を書いて出版しているのです。このときは軍令部第二班の参謀でした。
なぜペンネームにしたかというと、海軍士官が著書を出版するには海軍大臣の許可が必要だったからです。要するに石川は正式な手続きを経ずして持論を出版した。それもそのはず、その内容たるや「アメリカとの戦争は避けられないものであり、アメリカに対抗するためにも満蒙占領が重要」であるという過激なものでした。
さらに図に乗って昭和八年、このときは中佐で第六戦隊参謀の職にあったわけですが、「次期軍縮対策私見」という対米強硬論を海軍上層部に提出して、ここで語ったように超大型戦艦の建造を提言したというわけです。その内容は、軍縮条約からは早く脱退し、でかい船をつくったほうがいいという主張でした。
これに艦隊派の提督、軍令部の高橋三吉と嶋田繁太郎が乗っかった。いずれにしろ、戦艦大和が完成すれば日本海軍はアメリカに勝てるという確信を、艦隊派が持ってしまったことは事実なんです。