昭和天皇が父親のように慕った「老臣」がいる。太平洋戦争を終結に導いた鈴木貫太郎首相だ。2人はどのような関係だったのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から一部を紹介する――。

鈴木貫太郎首相と昭和天皇の深い絆

【半藤】中央政府をめぐる情況の経緯としては、昭和十九年七月十八日に「東條幕府」とまで呼ばれた内閣が総辞職。東條のあとを受けて首相となったのは小磯国昭陸軍大将でした。

これまで見て来たとおり絶対国防圏が破られて玉砕がつづき、昭和二十年三月十日の東京大空襲、おなじく三月の硫黄島玉砕、翌四月に沖縄本島にアメリカ軍が上陸を果たすと、四月五日に小磯内閣が総辞職しました。

次期首班をだれにするか。その日の夕刻から重臣会議が開かれた。そして重臣たちの総意として鈴木貫太郎枢密院議長に組閣の大命が降下した。鈴木はこのとき七十七歳でした。鈴木は昭和四年から十一年末まで侍従長として天皇の近くにあり、天皇は鈴木を父親代わりのように信頼していたといわれています。

正装姿の昭和天皇と香淳皇后
正装姿の昭和天皇(燕尾服・大勲位菊花大綬章・同副章)と香淳皇后(ローブデコルテ・勳一等宝冠章・同副章)(写真=『天皇家の生活』毎日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

【保阪】鈴木貫太郎については、鈴木内閣の国務大臣をつとめた左近司政三の話につきますね。鈴木は、左近司が戦艦長門の艦長の任にあったときの連合艦隊司令長官。二人は昔からごく親しい仲でした。ですから左近司は、組閣時から戦争終結にいたる鈴木の本心を、だれよりもよく知る立場にあった。組閣時から左近司には、その真意をはっきりと伝えられていたことがわかります。

鈴木さんは、組閣の当初からこの内閣で戦争に結末を付けたい。それには志を同じうする人を集めねばならない。勢い軍人内閣になるであろう。眞に相談になる軍人仲間を推薦して呉れと岡田[啓介]さんに相談したらしい。それで、米内海相のアシスタントにする積りで、海軍の荒城二郎、八角やすみ三郎と私が候補者に上ったようだ。当時私は貴族院議員をしていた。私は、鈴木さんから呼ばれて丸山町の自宅を訪れた。「御互いに相談して講和を促進したいのだ。無任所大臣になってくれ」とのことであった。