鈴木首相はポーカーフェイスを貫いた
【半藤】このときもし総理が東條英機であったなら、本土決戦を国策として採用していたであろうことは、まず間違いありません。鈴木の、戦争終結に向かうその姿勢がぶれることはありませんでしたが、徹底抗戦派から殺されてしまってはおしまいですからねえ。外部に対しては飽くまでポーカーフェイスで通しました。それを抗戦派とみる人も多かった。なかなかの狸でした(笑)。
【保阪】その様子を左近司が語っています。
鈴木さんは、最初から講和に決め込んでいたが、陸軍や新聞記者などに対しては時々強気のゼスチャーを示されるので、我々閣僚の中でも、総理は果たして和平を望んでいるのかどうか疑いを抱かせるようなこともあった。時々米内[光政]と私は、総理と膝を交えて講和の真剣な話になると、諄々とその本心を打ち明けられるのでその度毎に安心して帰った。
下村海南(情報局総裁)なども時々不安に思って、総理の本音を聴こうじゃないかなどと言い出して、関宿の自宅まで押しかけたこともある。しかし、総理はいつも名誉ある講和をと明言されるので、その都度安心して帰った。
鈴木に信頼を寄せる側近さえ、ときに不安になるほど徹底したポーカーフェイスだったのですね。
軍部の悪あがき、国民を道連れに玉砕に向かっていた
【半藤】そうなんです。昭和二十年六月に沖縄で敗れると、いよいよ軍部は本土決戦を決心します。それを受けて鈴木内閣は「戦時緊急措置法」と「国民義勇兵法」を議会に提出しているのですよ。この法律は、いや、もう法律なんていうようなシロモノではありません。一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権利を政治に一任するという白紙委任状そのものでした。
「秦の始皇帝の政治に似たり」と悪評さくさくで、鈴木首相は議員の質問がしつこく、うるさくなると「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科に行って診てもらいましょう」と、とぼけてみせているのです。そりゃあ、まわりは不安にもなりますよ(笑)。
そして政府はこの法案を、強引に六月二十三日に通過させている。これによって、女子も含めて、十五歳から四十歳までの日本人はすべて必要に応じて義勇召集を受け、国民義勇戦闘隊を編成しなくてはならなくなるわけです。軍部の悪あがきは、まさに国民を道連れに玉砕に向かおうとしていました。私は十五歳でしたから、いざとなれば義勇戦闘隊の一員として……いまになれば、夢みたいな話ですがね。