「造船に関しては素人と変わらないような一佐官の私見」

【半藤】石川はこんな具合に得々と喋っています。

ワシントン会議において、主力艦の排水量を三万五千屯に制限したのも、アメリカ自身の国防上の見地から、パナマ運河を困難なく通過し得る最大の型にこれを制限したものである。このことは反面逆にアメリカ海軍軍備上、パナマ運河が大きな欠点であることを示すもので、ロンドン条約廃棄後の日本海軍の軍備は当然この弱点を突かなければならんと思った。

戦後になってまで、ずっと得意だったのでしょうね。

【保阪】石川信吾はこうも語っています。

当時横須賀航空隊の大西瀧治郎中佐は航空万能で主力艦不要論をかざし、真っ向から反対して来たが、私は貴説は飛躍しすぎて尚早なりとしてこれを退けた。私はこの新造戦艦案を置き土産みやげにして軍令部に残して転任したが、これが基になって、後日戦艦大和武蔵が実現した。

「尚早」どころか、もはや大艦巨砲の時代は終わりをつげ、航空戦が戦いを制する時代が目前だったというのに……。

【半藤】要するに「大型戦艦着想の起源」とは、造船に関しては素人と変わらないような一佐官の私見だったんですよ。パナマ運河を通れないようなバカでかい船を造って、「一八吋砲」をのせたらいいなどという主張は。そうすればパナマ運河を通らざるを得ない米国戦艦より大きな戦艦になるので勝てるというわけです。まことに単純。

時代は艦隊決戦から、航空戦力に移行していたのに…

【保阪】建艦の雄、イギリスにも当時そういう着想はあったのですか。

【半藤】ないです。なんにもない。日本の独創なんですよ。

【保阪】「八八艦隊計画当時一八吋砲を計画し既に実験ずみであった」ので簡単だとか、石川はいっていますね。

【半藤】いま想像するのは難しいのですが、砲弾だけで、その大きさは私の背丈ぐらいある。一メートル八〇センチくらいあります。広島県呉の大和ミュージアムにいくと、十分の一の大和がありますよね。十分の一で二六メートルですよ。本物は全長二六〇メートルですから。なにしろものすごくでかい。

【保阪】昭和十一年十二月に開かれた第七十回議会では、大和、武蔵の巨大戦艦と、航空母艦の翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくをふくめ艦艇七十隻の建造予算が成立しています。翌年の昭和十二年から建艦競争に入るわけですね。

【半藤】実際、どんどん造り始めていくんです。それについて戸塚道太郎がこう言っています。

航空本部教育部の大西瀧次[ママ]郎大佐は新艦型につき強硬なる反対意見であって、頭からそんな馬鹿なものはよせと言って相手にしない。当時飛行機は未だ決戦兵力ではなく、補助兵力たるの域を出なかった。列国海軍いずれも海軍軍備の中心は戦艦であった。……今日から結果的に見れば、大西大佐に実に先見の明があったと云うことになるが、当時の世界情勢は実はそうではなかった。

昭和八年のこのとき、海軍中央は航空兵力の重要性にまだ気付いていなかったのも事実なんです。

戦闘機
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