特攻を推し進めた大西瀧治郎・海軍中将
【保阪】その瞬間に特攻が国策になったわけですね。昭和十九年十月の捷一号作戦で、大西瀧治郎がフィリピンのマニラに赴任したとき、マニラにいたのが福留繁でした。福留はこのとき第二航空艦隊司令長官。大西の第一航空艦隊は台湾沖航空戦でかなりやられて戦闘機が三十数機になってしまっていました。それでとうとう大西は特攻を指示する。福留がこのときのことを詳しく語っています。
大西と私は防空壕の中でベッドを並べて寝起きしていた。二三日夜大西は「特攻以外に航空攻撃の方法は立たない。第一航空艦隊は特攻一点張りでゆく第二航空隊もやれ」とさかんに口説いた。これに対して、私は「特攻はうまくゆくかも知れない。しかし、特攻で戦局を左右するような戦果は到底望めないと思う。私は部下の練度からみて、編隊集団攻撃の外自信がない。第二航空艦隊はこれで行く」と答えた。……二五日レイテ沖海戦の当日は、今日こそはと全力攻撃を企図したが、敵を発見し得ないのでまたも不成功に終わった。
この日第一航空艦隊では、関行男大尉の指揮する敷島特攻隊が、敵特空母に対し初の特攻攻撃に成功した。後日アメリカ側の発表によると、この特攻第一日は全く敵の意表に出たもので、六機の体当たり命中があり特空母一隻を撃沈している。同夜、大西は「それみたことか、特攻に限る」とまた執拗に口説き、とうとう第二航空艦隊も爾後特攻攻撃に転換することに踏み切った。
大西はずいぶんあっけらかんと、そしてイケイケで特攻を推し進めたようなニュアンスですね。
「大西次長は実践家で玉砕式、私は合理主義」
【半藤】最初の特攻で華々しい戦果をあげてしまった。これ以降一、二艦隊が合体となって、福留は合体した部隊の司令官になるのですが、実質は大西が指揮していました。特攻を指揮するには福留は弱いとされて、昭和二十年一月からは第一南遣艦隊に異動となっています。そのため彼はけっきょく戦後も生き残ることになります。
【保阪】昭和十九年十二月に軍令部第一部長になった富岡定俊が、敗戦直前の様子にからめて大西について語っています。大西は昭和二十年の五月に、小沢治三郎に代わって軍令部次長になっていました。
大西次長は実践家で玉砕式、私は合理主義で、作戦指導上の意見が合わず、六月頃私は任に堪えず辞任を申し出たこともある。戦争指導は、これまで軍令部の戦争指導班(班長末沢大佐)で受け持っていたが、和平のことも考慮しなければならない時期になったので、軍務局長[保科善四郎]が総合部長となり、その下に移して、軍令部は作戦一式とすることにされた。戦局はグングン悪化して、本土に対する空襲の被害は日々に激増し、遂に八月六日、八日[実際は九日]の広島長崎に対する原爆の投下となり、九日ソ連が参戦して日本の進退は茲に窮まった。