「奇跡の生還」の裏で起きていた怪死事件
サイパンの北方120キロ、フィリピン海に浮かぶアナタハン島は、東西約9キロ、南北4キロの小島である。
1951年(昭和26年)6月、この島から19人の男たちが米軍の船に乗って帰国した。彼らは戦中に米軍の攻撃を受け漂着した、カツオ漁船員らの生き残りだった。
もはや死んだと思われていた男たちの「奇跡の生還」に、日本中が沸いた。自分の「墓」を眺める者、すでに妻が再婚しており悲しみに暮れる者――それは戦争が生んだ悲劇の一シーンにほかならなかった。
だが、本当に日本中が驚いたのは、男たちによって明らかにされた次のような証言だった。
「島には当初、32人の男と1人の女がいた」
たった1人の女性・比嘉和子は、前年、すでに島を単独で脱出し、帰国していた。和子の説得によって、男たちはようやく日本の敗戦を信じ、米軍に投降したのだった。
男女2人が暮らす孤島に漂着した難破船
当初、島に32人いた男のうち、残りの13人はどこへいったのか。
「和子を奪い合い、殺された」
帰還者たちの告白に、当時のメディアは色めき立った。孤島のなかで、果たして何が起きていたのか。人々の関心事はその点に集中した。
さまざまな証言を総合すると、その忌まわしい物語は、およそ次のようなものだった。
戦時中、日本統治下にあったアナタハン島では、“海の満鉄”と呼ばれた貿易企業「南洋興発」がヤシ園を経営しており、農園技師・比嘉正一・和子夫妻2人と正一の上司の比嘉菊一郎、そして50人あまりの現地人の従業員が暮らしていた。
空襲が激しくなったころ、正一はバカン島へ親族を迎えにいくと言ったきり、帰ってこなかった。こうして、比嘉和子と正一の上司・菊一郎は、いつしか夫婦同然の生活を送るようになった。
1944年(昭和19年)6月、米軍に爆撃され難破した漁船がこの島に流れ着いた。その数、兵士や船員ら31人。ほとんどは20歳前後の若者だった。
自給自足の共同生活が崩壊していった
終戦後、日本領でなくなったアナタハン島から現地住民が去り、残されたのは32人の男性と比嘉和子1人となった。彼らは、空から舞い落ちる終戦、投降を呼びかけるビラを信じることなく、この島で共同生活を送ることになった。
幸い、南国の島は果実やヤシ、あるいは豊富な海産物に恵まれており、自給自足の生活が可能だった。
和子は、人好きで明るい性格だった。まだ20代後半だった和子は、照りつける太陽の下を、裸のような格好で闊歩していた。若い男たちの視線は、和子に釘付けになった。


