かくて、八月九日の最高戦争指導会議は、条件付でポツダム宣言を受諾するに一致し、翌十日午前会議[ママ]は開かれ、陸相[阿南惟幾これちか]、参謀総長[梅津美治郎]、軍令部総長[豊田副武]は反対の旨上奏したが、陛下から外相[東郷茂徳]の受諾意見に同意の旨聖断が下った。ところが、一二日両総長は相携あいたずさえて拝謁、再び反対の旨上奏した。

天皇の聖断が下り、8月16日に自決した

一三日夜大西次長は、米内大臣及び永野元帥の説得方を高松宮殿下に依頼し、作戦部員は手分けして永野元帥、及川[古志郎]、近藤[信竹]、野村(直邦)各大将を訪問して尽力を懇請したが、効果は無かった。かくて、一四日の御前会議となり、ポツダム宣言受諾の旨最後の聖断は下った。

大西次長は一六日官邸において自決した。八月十日頃のことだったと思う。私と大西次長は豊田総長室で激論した。私は「本土決戦で敵の第一波だけは何とかして撃退できるが、第二波に対しては目算が立たない」と言明したところ、大西次長は「君の計算は悲観に過ぎる」として、飽くまで精神論を固辞(ママ)する。大西次長は今まで陣頭に立って、飛行機の特攻攻撃を強調して来た関係もあり、今突如として無条件降伏と云うことでは、まことに苦しい立場にあったと思う。甚だ浮かばない顔をしておられた。大西次長は、あくまで降伏反対玉砕論で「天皇と雖も時に暗愚の場合がなきにあらず」とまで極論された。その翌日であったか、大西次長は部員を集めて、一席玉砕論を弁じた上、「俺について来るか」と念を押された。私は言下に「次長がその積もりならついて行きます。誓います」と即答した。然し情況は二、三日の内にがらりと変わって、最後の御聖断となり和平に決した。

富岡は、大西が「あくまで降伏反対玉砕論」で、聖断を下した天皇のことを「時に暗愚の場合がなきにあらず」と評したと言う。おそらく大西さんは実際そういうことを言ったのだと思うのですが、半藤さん、いかがですか。

大西瀧治郎
大西瀧治郎中将(写真=LERK/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

生き残った将官による弁解

【半藤】特攻作戦については、自決した大西にその責任を皆がなすりつけた印象があって、少々気の毒にも思えます。富岡の発言で私が気になるのは、天皇についての件も本当かなと思えますが、それよりも戦艦大和の沖縄特攻について「私の知らない間に……小沢[治三郎]次長のところで承知したらしい」と言っているところです。仮にも軍令部の作戦部長という立場にあったのですから、そんな責任逃れのような言い方はすべきではないです。どうも富岡さんは自分を正当化しすぎる傾向が強い。