急進的な政策ではなく、衛生意識の啓蒙を進めた

その後1897(明治30)年頃から、西洋の近代医学・衛生学の観点から入浴や浴場をみる記述が現れるようになる。そこでまず、医師や衛生の専門家を中心に、1883(明治16)年に組織された大日本私立衛生会について触れておきたい。

大日本私立衛生会は明治期の日本の衛生行政の取り組みと無関係ではないからである。幕末からたびたび流行したコレラは、明治期に入ってからもさまざまな地域で猛威をふるった。政府や自治体は急性伝染病に対する検疫や隔離を徹底的に行い、コレラ流行をおさえるべく制度を整えた。

安政5年、コレラ大流行による多数の死者の棺桶で混雑する火葬場
安政5年、コレラ大流行による多数の死者の棺桶で混雑する火葬場(画像=天壽堂藏梓/国立公文書館デジタルアーカイブ『安政箇労痢流行記概略』/CC-Zero/Wikimedia Commons

国策としては1880(明治13)年には「伝染病予防規制」が、1897年には「伝染病予防法」が制定されている。しかし、法規制だけで流行がおさえられるわけでもなく、トップダウン的で急な規制は人々から反発を招くこともあった。そこで、急性伝染病の流行を防ぐためには、市井の人々の意識を変えることが求められたのである。

考え方としては、強制するのではなく、自発的に予防する衛生的行動に向かわせることが必要だとされた。人々に衛生の知識を普及させることは、衛生行政を円滑に進めるうえで欠かせないことだった。とはいえ、衛生知識はなかなか人々に根づかない。そこで、「衛生」に関する知識と思想を啓蒙するために発足したのが「大日本私立衛生会」だった。

会頭には佐野常民さのつねたみ、副会頭は長与専斎ながよせんさい、幹事には松山棟庵まつやまとうあん三宅秀みやけひいづ、石黒忠悳といった日本の医学・衛生行政の近代化を語るうえで欠かせない面々が名を連ねている。

西洋的な衛生思想や伝染病対策を紹介

会の具体的な活動内容は、機関誌『大日本私立衛生会雑誌』の発行、総会員による総会や在京会員による常会の開催、「衛生談話会」「通俗衛生講和会」「通俗衛生談話会」の開催、痘苗とうびょう(天然痘の種痘の接種材料、天然痘ワクチンのこと)の製造・全国頒布、「伝染病研究所」の運営(*4)である。

大日本私立衛生会は当時の衛生運動を牽引した組織のひとつであったが、会員もまた近代化の最中にいたことには注意しておきたい。彼らによって普及が目指された近代的な衛生思想は、実は近世的な節制や鍛錬を基礎とする「養生」に近いものとしてとらえられていたという指摘があるように(*5)、大日本私立衛生会の活動は、近世の「養生」から欧米の近代的な「衛生」へと移行していく過程そのものだといえる。

その機関誌『大日本私立衛生会雑誌』は演説、論説、質疑応答、中外彙報、寄書といった項目で構成されていた。会員を中心とした多くの医師や衛生家が寄稿し、西洋の近代的衛生思想や伝染病対策が紹介された。

風呂や浴場との関わりで述べておくと、この機関誌が1883年5月に刊行されてから、1923(大正12)年1月に『公衆衛生』と誌名が変更されるまでの460号のなかで、入浴や浴場に関する記述は多いとはいえない。ただし、入浴に対する価値観の変遷をわかりやすく示す資料となっている。

(注)
(*4)「伝染病研究所」の運営は1892(明治25)年以降に行われた活動である。
(*5)瀧澤利行『健康文化論』、63頁