幕府の権力が強かった江戸時代、朝廷はどのように立場を守っていたのか。歴史作家の河合敦さんは「皇位継承には幕府の許可が必要であり、うまく協調した天皇がいた一方、衝突する天皇や上皇もいた。また、夭逝する天皇が相次ぐ中、2人の女性天皇が不安定な皇位継承を支えていた」という――。

※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)の一部を再編集したものです。

じつは江戸時代も院政が続いていた

2019年4月30日、天皇陛下が退位された。

天皇の生前退位は、およそ200年ぶりのことである。なお、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づき、引退した天皇を「上皇」と呼ぶことになった。もちろん、日本史で習う上皇とはまったく違う存在なのだが、やはりその語を耳にすると、およそ900年以上前に上皇が政治の実権を握った院政を思い浮かべてしまう。

ただ、この形態は平安時代に終わったわけではない。じつは朝廷における院政は、断続的ながら、なんと江戸時代まで続いてきたのである。

とくに長いあいだ院政をしいたのが霊元上皇だった。寛文3年(1663)、霊元天皇はわずか10歳で即位した。このとき父親の後水尾法皇は、天皇の年寄衆(側近)に九カ条の「禁裏御所御定目」を発し、「霊元天皇が朝廷の伝統を守り、神仏を敬し、熟慮できる帝王にふさわしい人物になるようにせよ。そのため学問に専念させ、妨げになる流行の遊興やくだらぬ噂話を教えてはならぬ」と命じた。

栄子内親王(泉涌寺所蔵)
栄子内親王(泉涌寺所蔵)(写真=『天皇一二四代』別冊太陽/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

強い政治力を持つ「ワンマン天皇」に

というのは当時、天皇をとりまく少年公家たちに素行のよくない輩が多かったからだ。実際、寛文11年(1671)の花見の宴では、霊元天皇が彼らと泥酔するという失態を演じている。

成人し、後水尾法皇から権力を移譲された霊元天皇は、朝廷で強い政治力を見せるようになった。延宝7年(1679)には、禁裏小番(公家の参勤や宿直)をサボったという理由で、鷲尾隆尹らを閉門にするなど厳しい処置をとっている。天皇の政務を代行する関白を軽視し、自身で強引に事を決めることも多かった。

小倉実起の娘との間に生まれた一宮が朝廷内で皇太子に内定、すでに幕府の内諾を得ていた。ところが霊元天皇は、一宮を寺(大覚寺)に入れ、五宮(朝仁親王)を後継者に定めたのである。これに外戚の小倉実起らが反発すると、なんと、彼を佐渡へ流罪にしてしまったのだ。