日本の歴史から現代人が学べることは何か。歴史作家の河合敦さんは「江戸時代にもっとも出世した男は柳沢吉保だろう。彼は将軍・綱吉の寵臣でありながら決して偉ぶらなかったし、綱吉の死後は未練なくすべての役職を降りて隠居するという見事な出処進退を見せた」という――。
※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)の一部を再編集したものです。
将軍の身辺雑務から大名に成り上がり
柳沢吉保は、館林藩士である安忠の長男として生まれ、家督を継いで保明と称したが、主君・綱吉が五代将軍に決まったことで運命が一変する。延宝八年(1680)、綱吉に従って江戸城に入った吉保(保明)は幕臣に取り立てられ、将軍の身辺雑務をこなす小納戸役を拝命。すると翌年、三百石を加増され、さらに天和3年(1683)には千三十石、貞享3年(1686)に二千三十石と増えていった。
その翌年、吉保の側室・染子が男児を産んだ。これがのちの吉里であり、綱吉の実子と噂された人物である。すると翌元禄元年(1688)に側用人(将軍と老中をつなぐ連絡・調整役)に抜擢され、上総国佐貫城主一万二千石になる。そう、ついに大名に成り上がったのである。幕臣になってからわずか8年しか経っていない。
さらに元禄3年(1690)には二万石となり、朝廷から従四位下を賜った。この年、初めて綱吉が柳沢邸を訪れている。以後、綱吉は生涯に58回も吉保の屋敷を訪問した。
これは尋常な数ではない。いかに吉保が綱吉に好かれていたかを物語っている。
1万人のお供にご馳走を振る舞った
吉保の出世のきっかけは、側用人・牧野成貞と親しくなったことである。成貞は綱吉の第一のお気に入りだったので、吉保は成貞を通じて綱吉との親交を深めていった。
同時に綱吉個人のことを徹底的に研究した。初めて自分の邸宅に綱吉を招いたさいなどは、全財産をはたいて綱吉の趣向に合った屋敷に造り替えている。綱吉が供1万人を連れて吉保の屋敷を訪れたときは、1万人すべてに豪華な食事を振る舞ったといわれる。
このように、主君のご機嫌をとるための出費は惜しまなかった。