桂昌院にも信任を得て、大奥を味方に

綱吉の生母・桂昌院への気配りも忘れなかった。とくに綱吉は親孝行で、ある意味、母のいうことなら何でも耳を傾けた。だから吉保は桂昌院を確実に味方につけておく必要があった。じつは桂昌院もたびたび柳沢邸に来臨している。その都度、吉保は彼女が感嘆するような工夫を凝らした。

あるときなど、全国の珍品を集めた店棚を縁日のように庭園にずらりと並べ、気に入った品々を土産として献上している。元禄15年には、莫大な金品を朝廷に贈って盛んに運動し、ついに桂昌院の従一位の叙任に成功したのである。

生前に従一位を受けるなど当時としては考えられぬ好待遇で、もちろん徳川家の女性の中では最高位だった。これにより吉保は、大奥に君臨する桂昌院の信任を得て完全に大奥も味方につけたのである。

こうして元禄5年に三万石の加増、同7年さらに一万石を加え、吉保はあわせて七万二千石を領する武蔵国川越城主となり、役職としては老中格を与えられた。いまでいえば閣僚である。同11年には老中の上座に就任。さらに元禄14年、綱吉から「松平姓」と綱吉の「吉」の字を賜わっている。これは、徳川一族であることを意味した。

異例の「大大名」に出世した理由

そして宝永元年(1704)、ついに甲府城主に任じられたのである。この地域に徳川一門以外の者が配置されるのは、前例がなかった。しかも十五万石の大大名になったのである。そういった意味で柳沢吉保は、くり返しになるが、徳川の治世でもっとも出世した男といってよいだろう。

柳沢吉保(一蓮寺所蔵品・狩野常信筆)
柳沢吉保像(一蓮寺所蔵品・狩野常信筆)〔写真=PD-Art(PD-old-70)/Wikimedia Commons

それにしてもなぜ、吉保はここまで栄達したのだろうか。

『徳川実紀』がその理由を端的に述べているので紹介しよう。

「吉保とかく才幹のすぐれしかば。(略)よく思し召しをはかり。何事も御心ゆくばかりはからひし故。次第に御寵任ありしものなるべし」

つまり、人の気持ちを素早く察し、決して相手の期待を裏切ることがなかったからだというのだ。悪くいえば、歓心を買い続けたということだが、それを続けるのは並大抵の努力ではなかったはず。