綱吉に「処罰が厳しすぎる」と諫言
さて、吉保の偉さは、寵臣ではあったがイエスマンではなかったことだ。綱吉への諫言もためらわなかった。
あるときは綱吉に対し「家臣を鼻紙や扇子のように思ってはいけません。あなたの処罰は厳しすぎます。法を適用するときにも、どうか情けをおかけください」と告げている。
吉保の恩人・牧野成貞は「三度、諫言しても将軍が聞き入れてくださられなければ、あとは自分も一体となってそのご意向に添うべきだ」と述べたが、吉保は「それは誤りだ。そうした重臣のために滅んだ家は多い。受け入れてもらえるまで何度でも諫言すべき。それこそが主家の先祖に対する大忠節というものだ」と語っている。
宝永6年(1709)1月、綱吉は死去した。得てして権力者の歓心を買って立身した人物は、権力者の死後すぐに周囲の弾劾を受けて失脚する。ところが吉保は失脚しなかった。布石を打っておいたからだ。
主君の死後、あまりに見事な出処進退
綱吉には嫡子がおらず、後継者選定がおこなわれたさい、吉保は強く甲府城主・徳川綱豊(のちの家宣)を推し、次期将軍に決定させた。その経緯から新政権は吉保を粗末にできなかったのだ。
さらにいえば、出処進退が鮮やかだったことだ。綱吉歿後、吉保は何の未練もなくすべての役職を降り、ただちに家督を吉里に譲って頭を丸めて隠居してしまっている。この英断よって、柳沢家には何のお咎めもなかった。それから五年後の正徳4年(1714)11月、吉保は57歳で生涯を閉じた。遺骸は甲府へ運ばれ、自分が創建した永慶寺に埋葬された。
八代将軍・吉宗の時代、直轄地拡大政策のために柳沢家は大和国郡山へ移封となるが、禄高が減らされることはなく、そのまま郡山の地で幕末を迎えたのである。なお、遺言だったのか、吉保夫妻の墓は、永慶寺から武田信玄の菩提寺である甲府の恵林寺に改葬された。
いずれにせよ、見事な出処進退だった。ビジネスパーソンが学ぶには適した歴史的人物ではなかろうか。