院政の功績は「220年ぶりに大嘗会復活」
霊元上皇がもっとも力を入れたのは朝儀の再興であった。石清水八幡宮放生会、皇太子冊立の儀、大嘗祭、賀茂祭などがこの時期に復活している。
とくに大嘗祭の復活は特筆に値する。大嘗祭とは、天皇が即位したのち最初におこなう新嘗祭のことだ。新嘗祭とは収穫した穀物を神に供える儀式。具体的には、天皇が神様たちと神饌(お供え物)を食する儀式と公家たちとの饗宴で構成される。
奈良、平安、鎌倉時代と脈々と継続してきたが、室町時代になると衰退し、文正元年(1466)の後土御門天皇を最後に中断していた。それを霊元上皇は東山天皇の即位にさいし、220年ぶりに復活させたのだ。
ただ、中断期間が長すぎて失われた所作や過程も多く、さらに「御禊行幸」のように幕府の財政事情で復活が認められなかった行事もあり、かなり簡略化されてしまった。このため、霊元上皇の兄である尭恕法親王や近衛基煕などは大嘗祭の復活を批判。次の中御門天皇のときは大嘗祭は執行されなかった。
病弱な天皇が続き、再び霊元上皇が実権を握る
霊元上皇の子・東山天皇は温厚な人柄で、関白の近衛基煕と霊元上皇の力を抑えつつ、幕府と協調して政務を執った。幕府も朝廷の禁裏御料を増やしたり、陵墓の修復費を拠出するなど盛んに経済的支援をおこない、幕朝関係は安定した。
だが宝永6年(1709)、東山天皇は病弱のために30歳で譲位、子の慶仁親王が即位して中御門天皇となった。天皇はまだ9歳。本来なら東山上皇が院政をしくはずだったが、残念ながらそれから半年後、東上は病歿してしまった。このため、再び霊元上皇が朝廷の実権を握ることになったのである。
霊元上皇は出家して法皇になったが、幕府は幼い七代将軍の名を霊元法皇に「家継」と付けてもらったり、霊元法皇の娘・八十宮を将軍・家継の正室にするなど、終始へりくだった態度を見せた。
将軍が幼君だったので、朝廷の権威を利用しようとしたのだろう。このため霊元法皇は朝廷での権力を維持し続け、享保17年(1732)に79歳で崩御した。いかがであろう。じつはこのように、江戸時代にも上皇による院政がおこなわれていたのである。