院政を抑制したい幕府vs権力を維持したい天皇
30代になると霊元天皇は、朝廷の帝という束縛された立場から脱し、上皇として自由な立場で朝廷を動かそうと、たびたび幕府に対して譲位の意向を告げるようになった。
けれど幕府はなかなかこれを許そうとせず、ようやく貞享4年(1687)になって、皇太子である朝仁親王(東山天皇)への譲位が認められた。ただ、このとき幕府は霊元天皇に警戒の念を抱き、「大きなこと以外、朝廷の政治には口出ししないように」と求めた。はなから霊元の院政を抑制しようというわけだ。
幕府としては、あくまで天皇と政務代行者である関白のラインを基本にすえ、武家伝奏(幕府と朝廷の連絡調整役の公家)を介して朝廷を管理・統制しようと考えていた。いっぽう霊元天皇は、かつての院政時代のように、自分が上皇として朝廷の頂点に立ち、権力を掌握したいと思っていた。
貴族と幕府に反発されてもへこたれず
東山天皇が17歳になった元禄4年(1691)、霊元上皇は政治権力の全面委譲を迫られた。霊元本人も同じ年頃に父の後水尾から権力を与えられたので、前例としておかしなことではなかった。もちろんこれは、幕府も了承済みだった。
だが、何を思ったのか霊元上皇は、同年、関白や武家伝奏らに対し、「天皇に忠誠を尽くし、朝廷のため命をなげうって忠勤せよ。個人的に武士と親しくしたり、へつらったりしてはならない」と記した誓紙に血判させたのである。
関白に対して血判を要求するなど前代未聞のことだった。前年、幕府の意向により、霊元上皇と仲の悪かった近衛基煕が関白になったことに不安を感じたのかもしれない。
仰天した貴族たちは、霊元上皇の力を抑え込もうと決意、前関白であった一条冬経が霊元上皇に対し、「あなたはよく物忘れをするので、今後の政務は関白らがおこないますので、どうか関与しないでいただきたい」と釘を刺したのだ。
また、幕府もついに元禄6年、霊元上皇を間接的に叱責したので、以後、霊元上皇は公然とは政務に口を出せなくなった。とはいえ、それからも陰ではいろいろと介入し、暗然たる力を握り続けたのである。