入社後、両親がいるタイ赴任が決まっていたが…

野村学は1965年、群馬県桐生市で生まれた。9歳の時、両親に連れられてタイにやってきて、4年間、同地で暮らした。

中学に進学するに際して、父親と母親はタイに残ったが、野村は帰国し、父親の実家がある桐生で祖母とふたり暮らしをした。大学に入学した時、上京し、卒業後は野村證券に入社した。この間、父母はバンコクに赴任していたから、彼は進路をひとりで決めた。

彼は思い出す。

「野村證券に入社して振り出しが高崎支店でした。その後、僕はタイに赴任することになっていました。やっと父と母と暮らすことができると思っていたのですが、最初に生まれた子どもが重い心臓病にかかりました。看病するため、タイへ行くことをあきらめて日本に残るしかありませんでした。結局、その子は4歳で亡くなりました。ええ、悲しいことですけれど、もう大丈夫です。すみません。

その後もタイへ行くことはなく、海外業務本部に行き、それからは法人畑でした。上場会社のファイナンスとかM&Aの担当です。自動車のトップ企業を担当しましたから大きな商売をさせていただきました。それからは社長秘書もやりました。当時の古賀信行社長の秘書でした」

タイの伝統工芸品「ベンジャロン焼」を製造、販売するタイ・イセキュウ社長の野村学さん=2024年7月、バンコク
筆者撮影
タイの伝統工芸品「ベンジャロン焼」を製造、販売するタイ・イセキュウ社長の野村学さん=2024年7月、バンコク

「10兆円ディール」を達成した辣腕

「そして、執行役員になってからは法人営業をやって、その後、野村インベスターズリレーションズの社長を5年半。赤字会社だったのを黒字にして史上最高益を達成しましたけれど、私が優秀だったのではなく、時期が良かっただけです。会社人生はおしまいかなと思っていたら、2021年にLINE証券の会長をやれ、と。私自身は今年3月に退職しました。野村證券もLINE証券の株取引からは撤退です」

淡々と語る野村は典型的な証券マンの風情ではない。押しの強さは感じないし、饒舌でもない。

「私の会社人生でいちばん成績が良かったのは東京で法人担当役員だった時でした。70人のチームで目標は5年間で10兆円のディールを達成すること。インベストバンキングの部隊で、もう土日もなかったと記憶しています。最初から10兆円が目標ではなく、業績を達成するたびに目標がどんどん上がっていった感じです。もうトラブルばかりでした。トラブルをどう解決していくかが役員の仕事、私の仕事でした。

営業の基本は相手を知ることに尽きます。例えばある会社に投資案件を持っていく。誰が賛成していて、誰が反対しているか。それを把握していないと営業はできません。でも、もちろん、簡単には教えてくれませんよ。賛成してくれている相手、反対している相手の中にするっと入っていくことができなくてはいけない。反対している人を敬遠するのではなく、反対の理由を知り、それを解決する」

ベンジャロン焼
本人提供