内定を蹴って潰れかけた会社に戻る

2007年に会社を譲り受けたはずのファンドは翌年のリーマンショックで潰れ、株式会社佐田は当時の取引先であったY社の100%子会社となっていた。しかし2011年の震災で宮城工場が被災し、佐田の売り上げは大きく下がってしまう。

すると「100%子会社に倒産されては、親会社も信用を失いかねない」と、経営を不安視したY社からも手を引かれてしまったという。社内の誰一人、社長の椅子に座ろうとしない状況で、佐田さんの名前が持ち上がった。

なぜ、内定を蹴ってまで潰れかけた会社に戻ったのか。そう尋ねると、佐田さんは熱っぽく語り始めた。

「このタイミングで私に声がかかるなんて、何かあると思いませんか? 祖父は口を酸っぱくして私に『迷ったら茨の道をゆけ』と繰り返しました。それが今なんじゃないかって。これは祖父の思し召しだとしか思えません。だって、『大政奉還』ですよ?」

今回はさすがに父も反対し、妻も「私をお義母さんやお祖母さんのようにする気か」と泣いて止めたという。しかし決意は揺るがなかった。

店舗に並ぶイタリア製の生地
撮影=プレジデントオンライン編集部
店舗に並ぶイタリア製の生地

「オーダースーツは終わった」と嘆く社員に示した活路

佐田さんが離れた2007年時点で24億円あった売り上げは、17億にまで落ち込み、完全に行き詰っていた。

売り上げの大部分を占めていたのは、百貨店やテーラーからの受注仕事だった。しかし、震災を機に廃業するテーラーが相次いだことや、大口の取引先だった親会社のY社と縁が切れたことによって、受注数は大幅に減少していた。

佐田さんの改革に熱意をもって取り組んでくれた経営幹部たちも、「百貨店の勢いは弱まり、オーダースーツの時代は終わった」「震災の影響が収まるまで、節約して持ちこたえるしかない」と、たった4年で無気力になっていた。

「節約なんて、とんでもない。企業は積極的な生産活動がなければ、いずれ傾いてしまうんです」

事態を打開すべく佐田さんが選んだ手段は、4年前に立ち上げた、メイドインチャイナのオーダースーツで小売りを始めることだった。北京工場をフル稼働させて、軸足を卸から直販に移すのだ。3店舗くらい店を出し、1店舗5000万円程度の売り上げが出れば家賃や人件費を払っても十分ペイできる。

しかし、この計画には全幹部が反対し、5人が辞表を出した。

「前回辞表を出したのは3人でしたが、同時に出されたからたいへんでした。今回は5人ですが、1カ月おきに出してくれたので助かりましたね」