幹部社員の反発、笑顔で辞表を受け取った

しかし、急激な改革は社内に軋轢を生む。佐田さんのやり方に反対し、営業のトップ3人が同時に辞表を突きつけ、路線変更と謝罪を迫ったのだ。3人が辞めれば、3人に付いている客が全て引き抜かれてしまう。社員たちは佐田さんに頭を下げるよう、泣きながらすがったが、父だけは違った。

「彼らのやり方で今まではうまくいかなかった。お前のやり方でだめなら俺も諦めがつくが、やり方を戻して会社が潰れたら諦めがつかない。俺はお前に賭ける。笑顔で辞表を受け取ってこい!」

佐田さんは3人の辞表を、笑顔で受け取った。幹部たちのぎょっとした顔は、今でもよく覚えている。

会社は佐田さんが帰ってきた翌年には1億円の黒字、その次の年には1億7000万円の黒字をたたき出し、まさにV字回復を遂げた。

ここからオーダースーツSADAの快進撃が始まる……わけではなかった。

3期連続8000万円の赤字が1年で黒字になったが…

「佐田が黒字化した」という噂が狭い業界内を駆け巡ると、仕入れ先から「サイトを詰めろ」の大合唱が始まった。サイトを詰める、つまり支払いを先延ばししていた売掛金をすぐにでも支払えという意味だ。父は金融機関だけでなく、あらゆる取引先に泣きつき、支払いを先延ばししてもらっていたのだ。取引先だけではない。従業員への給料も遅配を繰り返していた。

「もう無理だと思いましたね。利益が出たといってもすぐに支払いができる状況ではない。もはやここまででした」

インタビューに応じる佐田さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
業績を回復させても、会社は行き詰った。政府の支援策に一縷の望みをかけたが…

3期連続赤字8000万円を掘っていた企業を1年で黒字化できた。見事にあがき、華々しく散る。祖父もきっと、あっぱれだったと誉めてくれるだろう。

佐田父子が破産を決意したとき、意外な方面から援軍ののろしが上がった。メインの取引金融機関だった、商工中金神田支店の支店長だ。

「ここまで黒字化したんですから、破産してしまうのはもったいない。中小企業再生支援制度が使えるかもしれません」

「中小企業再生支援制度」。将来的に可能性のある会社なら、貸し付けしている金融機関が一定割合債権放棄することで生き残らせようという、当時の小泉内閣の企業支援策だった。

確かに当時の佐田はまだ借金が残っているもののバランスシートは黒字。借金を減額してもらうことで、生き残る可能性は大いにあった。一縷の望みをかけて、佐田さんは手続きに進んだ。