思い立ったが吉日、父と話をしようと自宅に戻ったが、いざとなると言葉が出ない。下を向いたまま黙り込む佐田さんに、父が一言、声をかけた。
「……なんだ、落ち着いたのか。思ったよりも早かったな」
冷静になって頭を下げに来る佐田さんを、父は待っていた。そして父も頭を下げた。
「お前の人生を潰してしまったことを、俺は謝らなければならない。しかし、婿養子である自分を社長として選んでくれた祖父に報いるためにも、俺は1%でも可能性があるのなら、息子の人生一つ二つ潰してでも、その1%に賭けなければならないんだ」
父もまた、極限まで追い詰められていたのだ。
営業改革と北京工場のテコ入れ
父の切り札は、操業して間もない北京工場だった。北京郊外の農村地にあり、人件費は日本の5分の1。生産の中心を北京工場に移せば、原価は下がり、その分利益が上がるという目測だ。
しかし、メイドインチャイナのオーダースーツを受け入れるテーラーなど皆無だった時代だ。しかも、北京工場からの納品は頻繁に遅れるうえに、素人が見てわかるほど縫い目が曲がった不良品も多い。
「中国製オーダースーツをテーラーさんに認めてもらうには時間がかかります。まずは経営状況を見直して延命を図りつつ、並行して北京工場のクオリティを上げていかなければなりませんでした」
営業の現場を見て愕然とした。営業担当が勝手に値段を下げて受注していたのだ。からくりはこうだ。工場の稼働率が上がれば、原価は下がる。そのため営業担当はとにかく着数を取って工場をフル稼働させることに執着した。すると彼らは客先で土下座をして着数を取ろうとする。土下座をされた客が何を要求するかといえば、値下げだ。
「スーツには閑散期と繁忙期があって、閑散期には20%~30%程度料金が下がります。また制服料金というのもあって、同じ型を使える制服はフルオーダーより工数がかからないので、100着以上発注してくれれば20%オフ、300着以上なら30%オフと、ディスカウント料金が設定されていました。それを営業が勝手に通年閑散期料金で、1着からでも制服100着料金でと、勝手に値下げをしていたんです。結果的に、仕事の6割ほどがディスカウント料金で取引されていました」
まずは自身が客先に出向いて事情を説明し、通常料金に戻してもらった。営業担当は「そんなことをしたら客が離れてしまう」と主張した。しかし実際に話してみると、「実はこんな価格で大丈夫かと心配していた」と、ほとんどの顧客が価格変更をあっさりと受け入れたという。
これだけでも半年で赤字・黒字がトントンになった。
中国製が「低品質」だった理由は給与体制にあった
同時に北京工場の改革に取り掛かる。今まで日本から幹部が来ることもなかった北京工場は、完全に士気が緩んでいた。工場長は日本人だったが、現場の見回りもせず、出勤しないことさえ珍しくなかったという。佐田さんが何度注意しても変わらず、遂には辞表を出して辞めていった。
低品質の一因は、給与体制にもあった。着数によって賃金が計算される出来高方式なので、賃金を上げるためにはできるだけ速く仕上げればいい。誰もがスピードを重視し、縫製が雑になっていたのだ。
佐田さんは父にこの現状を報告し、宮城工場にいる製造部責任者に頼み込んで北京工場の工場長に就任してもらった。新工場長は中国人労働者に対し、「不良品を多く納入すれば、明日以降注文が減る。長く報酬を得たいなら、しっかり検品して不良品をすべて取り除くこと」と伝え、品質管理を徹底させた。工場の見回りも強化し、通訳を介して粘り強く指導したという。
結果、工場長の交代からたった1カ月で、北京工場から納品されるスーツの品質は、日本でも十分通用するレベルに向上したのだ。