当初把握していた金融機関からの借り入れは約25億円。そのうち60%程度債権放棄してもらい、残りを会社で分割で返済していく再生計画を予定していた。しかし、専門家による詳細な調査が進むにつれて、仕入れ先への買掛金や従業員への未払い給料など、約7億円の隠れた債務が発覚する。

この時点で自力再生の道は閉ざされ、会社の経営権は商社系ファンドの手に渡ることが決まった。結局は金融機関が85%債権放棄し、未払い金はファンドが投入した出資金で返済。会社は運転資金の援助を受けつつ残債務4億円を返済していくことで、なんとか再生計画は認められた。

父は従業員の雇用だけは守ってほしいと訴え、自己破産を選択。同じく連帯保証人についていた佐田さんは、経営が軌道に乗るまでファンドに協力することを条件に、破産を免れた。

2007年、佐田さんは33歳、父は62歳、父子は会社と住み慣れた家を同時に失った。

会社と自宅を手放し、築30年のアパート暮らしを始める

祖父が建てた杉並区善福寺の家を失い、一家は小金井市へ引っ越した。

父、母、そして祖母の3人は寝室2つに10畳のLDK、当時結婚したばかりだった佐田さん夫婦は、寝室1つと8畳のLDK。敷金礼金保証金なし、築30年ほどのアパートで、それぞれ新生活をスタートする。まだ年金受給前だった父は塾講師のアルバイト、母も託児所で慣れないパートの仕事を始めた。

祖母は心労がたたったのか、3カ月後に脳卒中で他界した。その数年後には母もガンが発覚し、闘病の末に他界するなど、佐田家にとってもっとも苦難の日々が続く。

「……自分のベストを尽くした結果だと、受け止めるしかありませんでした。落ち込んでいる暇もありませんし、とにかくちゃんと働いていかないと」

佐田社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
東京・杉並の閑静な住宅地に住んでいた佐田さん。家を失い、アパート暮らしの日々が始まった

佐田さんにも逆風が吹き荒れる。最初に就職したIT企業は、2008年のリーマンショックの影響で入社一年後に破綻、次に就職したコンサルファームも、2011年の東日本大震災で、入社二年後に倒産してしまう。それでも落ち込んでいる暇もなく、佐田さんは次の就職先を探し、2社から内定を得た。

これからまた働いて生活を立て直していこうと、家庭内も明るくなっていたそのとき、佐田さんは一本の電話を受ける。4年前に商社系ファンドの手に渡った会社の、元営業部長からだった。

電話を受けて長い間、受話器の向こうからはすすり泣きしか聞こえなかった。それでも相手が誰なのか、佐田さんにはわかった。長い長いすすり泣きのあと、彼は一言だけ言った。

「……若社長、大政奉還です」