計画通りに進められなくても割り切ることが大切
仕事をしながら何かの勉強を始めれば、「毎日これだけ勉強しよう」と決めておいても、仕事の忙しさに時間を取られてしまいます。「今日は付き合いで飲んじゃった」という日も出てきます。生まじめに考えすぎて、自分が立てた計画を実現できないことに絶望したりあきらめたりしてしまう人が、意外に多いものです。そんなときは「まあ、そんなもんだ」と、割り切ることです。
ときどき立ち止まってもいいし、しばらく休んでもいい。そのくらい気楽に構えることが長続きの秘訣だと、私は思っています。
本書の第二部(3~5章)でおわかりのように、実は私自身もそんなふうに割り切ってきました。大検受験や大学の通信教育課程で学んでいたとき、勉強のスケジュールは立てましたが、2、3割しかこなせませんでした。それでも「まあ、そんなもんだ」と割り切っていました。「自分のペースで、自分が空いた時間に、自分が学びたいことをやる」というのが、私が提唱する独学の定義です。今までの著書に寄せられた感想でも、「途中で投げ出してもいいんだとか、あきらめてもいいと書いてあったところに、とても勇気づけられた」という声が目立ちました。だいたい、一人で勉強してまじめにできる人なんてそんなにいるものではないのです。
定年より少し早めに学び始めたほうがいい
まえがきでも触れたとおり、人生100年時代の今は、本当は「三毛作の人生」をめざすのがいいと思っています。①20~40歳(普通に働く)、②40~60歳(①を活かした発展形)、③60~80歳(社会や地域への貢献)といった具合に切り替えると、人生を3回生きられます。
50歳くらいになったとき、「この職場にいれば安心だし、他に居場所もないから、自分の将来の発展とか楽しさは、犠牲にするしかない」という感覚を、多くの人が持つと思います。面白そうな仕事があって、やってみたいけれども、家のローンはあるし、子どもの教育もあるし、親の介護もある。雇用が守られていることと裏腹に、「仕方ない。定年まであと何年、なんとか我慢するか」という諦念を持ちがちです。
しかし定年までの年月より、その先のほうが長いかもしれません。「明日からどうやって食べていこう」という切実な現実に直面したら、楽しみながら勉強する余裕は生まれません。65歳から先、さらに20年ぐらいの人生があると考えれば、「ああいうことをやってみようか」「今からこういう能力を身につけてみようか」という何かが見えてくるのではないでしょうか。手始めに10年後の自分を想定して、どんなことをやっていたいか考えてみればいいと思います。
「第二の人生が始まるから、会社を辞めて大学へ行くことにしたよ」といきなり切り出せば、「あなた、何考えてるの!」と家族の大反対に遭うことは明らかです。だからなるベく早い時期に、少しずつできることから取りかかるべきです。定年間際になってから慌てる人と、少しでも早い時期に楽しみながら学び始めていた人の差は、歳を重ねるにつれて大きく開いていくと思います。