大谷翔平選手は2013年、日本ハムに入団して「二刀流」に挑戦した。10年にわたり大谷選手を取材しているスポーツニッポン新聞社MLB担当記者、柳原直之さんの著書『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)より、プロ1年目のエピソードを紹介する――。
公式戦初勝利を挙げた日本ハム(当時)の大谷翔平
写真=時事通信フォト
公式戦初勝利を挙げた日本ハム(当時)の大谷翔平(=2013年6月1日、札幌ドーム)

大谷選手を困らせた初めての質問

2013年4月某日。初めて生で見た大谷は困惑の表情を浮かべていた。いや、正確に言うと「浮かべさせて」しまった。練習終わりに鎌ケ谷スタジアムの正面入り口で行われた囲み取材。終盤で大谷に「将来的に長嶋さんや松井さんのような国民的スターを目指したいですか?」と問いかけた。これが大谷に投げかけた初めての質問だった。

言い訳になる。この質問は事前にデスクから指示が飛んでいた。その日の練習内容には全く関係がなかったが、私はスポーツ紙の取材はそういうものなのかと疑問には思わなかった。当時の大谷と長嶋氏、松井氏との関連性は皆無だ。大谷は「いやぁ、特に……」と苦笑いしながら、首をかしげていた。

振り返れば、いかにもスポーツ紙らしい「見出し」を狙った質問だ。今でも反省している。当時の大谷の何とも言えない困惑した表情はこれからもきっと忘れないだろう。

取材できる機会は原則「1日1回」

大谷は2012年秋のドラフト前にメジャー挑戦を表明したが、日本ハムが強行指名。その後、何度も交渉を重ね、熟慮の末に入団を決意した。入団後の大谷のメディア対応は原則「1日1回」。理由はひとつ。投打二刀流でミーティングなどの準備、練習、体のケアなど、常に多忙を極めるからだ。このルールが、2017年の退団まで続き、後のエンゼルス移籍後も踏襲されていくことになる。

当時の私は、日本ハム担当の休日、もしくは日本ハム担当が別件で都合の悪い日を手伝う「遊軍記者」として、鎌ケ谷を訪れる機会が急激に増え始めていた。

スポニチの日本ハム担当は北海道総局(現北海道支局)所属で札幌在住のため、東京本社の記者が日本ハムの2軍取材をカバーしなければならなかった。主な目的は右足首痛のため2軍調整中だった大谷の取材。私が住んでいた千葉県船橋市の社員寮は鎌ケ谷まで電車で約30分と遠いわけではなく、地理的要因も大きかった。