「二刀流として戦力になる」強いこだわり

12月28日。緊張感を覚えたと同時に、心が躍った。遊軍記者ではなく、担当記者として初めての大谷の取材は、花巻東の3学年先輩でもある西武の菊池雄星(現ブルージェイズ)とのトークショーだった。岩手県花巻市で開催された「ふるさと復興応援イベント」。東日本大震災の復興支援と地元への恩返しを目的に大谷と菊池の2人が発案し、野球少年ら約3000人を前に技術指導などを行っていた。

ここで大谷は2年目の2014年シーズンに向け、開幕からの二刀流出場に向けて力強い言葉を残した。1年目の2013年は打者としては開幕スタメンを勝ち取ったが、初登板は5月23日のヤクルト戦(札幌ドーム)だっただけに「シーズン最初から(二刀流を)見せられるように頑張りたい」と言い切った。当時の栗山英樹監督から先発投手として2桁勝利を厳命され「(投手と野手)どっちも最初から戦力として戦える位置にいたい」とどん欲だった。

メジャー移籍後、練習相手は水原通訳だけ

さらに当時の取材メモを振り返ると、興味深い談話が残っている。この時、菊池は大谷から年明けに行う母校での自主トレに誘われたことを明かしたが「丁重にお断りしました」と説明した。その理由については「大谷もプロ。職場も違うし、バラバラで良い。カズさん(前楽天監督、現取締役シニアディレクターの石井一久氏)にも“縛っちゃダメ”と言われた。先輩風を吹かせたくない」と語っていた。

大谷は「人に興味がない」ため、誰かを練習に誘うことは珍しい。2014年と2015年の沖縄・名護で行われた春季キャンプ前には、1週間ほど早めに前乗りする「先乗り合同自主トレ」に初日から参加。2015年、2016年と2年連続でダルビッシュと都内で合同自主トレも行った。

だが、メジャー7年目に突入した2024年現在、大谷は先輩、同期、後輩にかかわらず誰かと自主トレを行ったり、誰かを自主トレに誘ったりするようなタイプではなくなっている。大谷の練習パートナーは、メジャー移籍後、日本への一時帰国中だろうと一貫して水原通訳のみ。自身の影響力の大きさを鑑みてか。注目度が高くなりすぎた故に周囲に気を遣うようになったのか。大谷の思考はもちろん、周りを取り巻く状況の変化が影響しているのだろう。

大谷翔平選手と通訳の水原一平さん
大谷翔平選手と通訳の水原一平さん(画像=Moto "Club4AG" Miwa/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

プロ1年目の年末年始はベッドで過ごした

2014年1月3日。年明け早々に、私は再び大谷の地元岩手県を訪れていた。野球ファンであれば、テレビのニュースや新聞記事で選手が「自主トレ公開日」と称して、自主トレ後に取材を受けているシーンを見たことがあるだろう。

花巻市内の母校・花巻東で行われる大谷の年明け初練習がその「自主トレ公開日」に設定された。私にとって初めての「自主トレ公開日」の取材でもあった。

大谷は「背番号(11)に合わせて」午前11時11分に始動した。2番手投手で、その後慶大野球部でプレーしていた小原大樹さんら3人とキャッチボールやウエートトレーニング。最低気温マイナス2度。小雪がちらつく銀世界の中で汗を流したが、実は大谷はこの年末に体調を崩し、元日まで自宅で寝込んでいたという。

「ひとつでも多くチームに勝ちをつけたい」

「吐いたりしたのは久々。なかなか良い経験でした」

前年12月30日の夜に異変を訴え、31日に病院へ行くと「感染性胃腸炎」の診断で点滴を受けた。大谷本人いわく「原因不明」で、39度の発熱。食事ものどを通らず、元日はおせち料理も食べることなく、ゼリー飲料のみで過ごした。初詣に出かけることもできず、初夢も「うなされて覚えていない」というが、体調が回復したこの日は、仲間との久しぶりの練習に笑顔が絶えることはなかった。

大谷は「今季の目標を漢字1字で」と問われると、「勝」を選んだ。聞けば2年連続らしい。しかし、その重さは違った。「昨年は勝たせてもらったシーズン。今年はひとつでも多くチームに勝ちをつけたい」。他人の力ではなく、自分の力でチームに勝ちをつける。「何とか2桁勝てるように頑張りたい」と具体的な目標も掲げていた。