怪物揃いの中でも図抜けたポテンシャル
当時はファン、球界関係者含め、大谷の二刀流に懐疑的な見方が多く、注目度も今よりは限定的だった。だが、一度その投打を生で目にしたメディアやファン、相手チームは一様に驚きの声を挙げ、目を奪われていた。投げては150キロ台を何度も計測し、打ってはフリー打撃ではあるものの、驚異的な飛距離の柵越えを連発。怪物揃いのプロ野球の世界でも、ポテンシャルの高さが図抜けていることは明らかだった。
同じ4月のある日。極度の不振から2軍落ちを志願した当時40歳の稲葉篤紀(現日本ハム2軍監督)と交互にフリー打撃を行っている日があった。照りつける太陽の下、大谷は食い入るように柵越えを連発する稲葉の打撃を見つめていた。
稲葉は「(自身は)スイングが小さくなっていたので大きくすることを意識した。本塁打を狙いにいった。(自分に刺激されて)大谷は力んでいたけど……」と笑い、大谷は「稲葉さんの打撃はムラが少ない。一緒にやることで学ぶことが多い」と真剣な表情で話していた。
稲葉氏は「選手だけでなく人間として尊敬する」
大谷は入団前から稲葉を憧れの人物に挙げ、後にその理由について「グラウンドに落ちているゴミがあれば拾い、全力疾走もする。選手だけでなく人間として尊敬する」と語っていた。大谷はメジャー移籍後、ゴミ拾いを含めたマナーの良さや礼儀正しさが注目されるようになるが、花巻東で過ごした3年間はもちろん、この稲葉との出会いから大きな影響を受けていた。
その後もよく鎌ケ谷に通っていたが、大谷の中で私の顔と名前は一致していなかっただろう。比較的選手と近い距離で話すことができるキャンプを取材していない遊軍記者の立ち位置は難しいものだ。そんな中、転機が訪れた。12月。私はスポーツ部野球担当になってから1年も経たずに、北海道総局に異動を命じられ、日本ハム担当を拝命した。
スポニチの日本ハム担当は主に球団幹部や監督ら首脳陣を担当するキャップ1人(先輩記者)と、主に選手を担当する記者1人(私)の2人体制。プロ1年目を終えたばかりの大谷は当時、二刀流としての地位を確立していなかったとはいえ、日本ハムで最大の注目選手だった。異動を命じられたのは12月のオフの自主トレ期間中。ここから大谷の一挙一動を追いかける日々が始まった。