野村克也監督によってどん底から一流へと再生した野球選手は多い。その一人が遠山奬志投手だ。ドラフト1位ながらトレードに出され、野手に転向するも成功せず、30歳の時には引退を考えた。だが、最後のあがきと思って受けた入団テストで合格し、野村克也監督との出会いで運命が変わっていく。ライター中溝康隆さんの新著『起死回生 逆転プロ野球人生』(新潮新書)より紹介する――。(第2回)
プロ11球団の誘いはすべて断った「超高校級投手」
その男は、若くして栄光への階段を駆け上がり、かと思えばときに傷だらけで地獄の門を叩く、そんなドラマチックな野球人生を歩んだ。
始まりは怖いほど順調だった。遠山奬志(1998年までは「昭治」)は熊本・八代第一高(現・秀岳館高)で2年生の夏から投手になり、通算69勝3敗の超高校級サウスポーとして鳴らした。
1試合の最高奪三振18、平均奪三振は12を記録。対外試合のノーヒットノーランは通算11度を数える。当然、プロのスカウトも熊本にこぞって駆けつけたが、遠山はもっと楽しみながら野球をやりたくて、プロ11球団の誘いはすべて断った。特に熱心だった巨人や西武に対しても「社会人に進みます」と門前払い。
だが、阪神のスカウトはわざわざ自宅まで来たので、諦めてもらうために「1位指名ならタイガースにお世話になります。2位以下だったら社会人に進みます」なんて無理な条件をふっかける。
この1985(昭和60)年ドラフト会議、阪神はPL学園高の清原和博を1位指名することが確実視されていたのだ。しかし、6球団が競合した地元のスーパースター清原を阪神は抽選で逃す。そして、外れ1位指名で遠山の名前が呼ばれるのである。
えっマジかよ? ドラフト開催時、体育の授業のマラソンで校外を走っていたら、突然呼び戻され自身の1位指名を知った。学校にはすでに記者陣が集まり、球団創設以来初の日本一に輝いた猛虎フィーバーの真っ只中、18歳左腕への注目度は高かった。