野村監督に言われたアドバイス
だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。
吉田義男監督の前で投じた36球が、逆転野球人生のきっかけとなるのだ。ストレートは最速134キロだったが、直球の握りで自然とスライドする“まっスラ”が指揮官の目に留まった。その年から現場復帰していた吉田は、遠山が一番良かった新人時代を知る監督でもある。野手時代に肩を休めたからか不思議と痛みはなかったが、久々の本格的な投球に右太ももが痙攣した。
実はこのピッチングテストは、外野からの回転の良い返球を見た首脳陣が、「ピッチャーに戻した方がいい」と判断して急遽実施された追試だった。こうして、30歳の遠山に投手としてまさかの合格通知が届いたのである。
プロ13年目、年俸900万円の再々出発。阪神復帰1年目の98年は二の腕の肉離れを起こすなどアクシデントに見舞われ、まずは投手仕様の体に戻すことを心がけた。そして、99年に野村克也監督が就任すると、「もう少し腕を下げてみたらどうや。左バッターのインコースに、シュートか落ちる球を投げられないか」とアドバイスされ、遠山は自分の生きる道を見つけていく。
ノムさんは、「遠山なんて、ブルペンで見ていたらとても使う気にならん。でもあの度胸はすごい。130キロそこそこで真っ向勝負にいきよる。普通はいけない」とマウンド度胸を絶賛して、その気にさせた。
与えられた場所で自分の仕事をした結果
さらに当時の阪神投手コーチはロッテ時代の監督・八木沢荘六だった。遠山がサイドスローを意識したのは、94年に八木沢監督から「何とかイチローを抑えてくれないか」と言われ、上よりは横からの方が打ちにくいんじゃないかと考えたのがきっかけである(この年、210安打を放ったイチローを遠山は4打数無安打に抑えている)。
多くの出会いにも恵まれた古巣でのリスタート。99年には、なんと自己最多の63試合に登板。もはや中継ぎでもワンポイントでもかまわない。一度クビになった身、与えられた場所で自分の仕事をしようと腹をくくった。
10年ぶりの勝利投手に、13年ぶりの甲子園のお立ち台。防御率2.09の安定感。右投手の葛西稔と交互に一塁を守る“遠山・葛西スペシャル”は大きな話題となった。これには代えられた一塁手のマーク・ジョンソンも「まさか自分が交代させられるとは思わなかったな(笑)。でも、ナイスな判断だったと思うよ」なんて苦笑い。
遠山本人はのちに「実際、つらかった。ピッチャーとしたら情けないと言いますか、嫌でしたよね。右バッター相手でも抑えられるという信頼がなかったということだし」と本音を語っている。