やることはやった…つもりだった
だが、新天地の遠山は年間30試合前後に登板するも、常に準備が必要な中継ぎの便利屋稼業に身も心も削がれていく。当時は勝ち負けのつかない中継ぎやワンポイントに対する評価も低かった。
そんな毎日を過ごすうちに、次第に「野手で勝負してみたい」という気持ちが強くなっていくのだ。もともと高校時代は、打率4割4分超えの高校通算35ホーマー。熊本の広い藤崎台球場で1試合3発も記録したことがある長距離砲だった。
中西太ヘッドコーチの後押しもあり、94年の夏場からはピッチャーとして練習したあと、打撃練習もこなし、やがて野手一本に絞り再出発。96年にはイースタン・リーグ最多記録の99安打を放つも、守備・走塁面に不安があり、一軍ではほとんどチャンスを貰えなかった。
そして、薄々覚悟はしていたが、野手3シーズン目の97年ファーム最終戦が終わると戦力外通告を受けるのだ。10代の頃、“江夏二世”と呼ばれたサウスポーは、30歳になり野手としてクビになった。
ありがたいことにロッテからはスカウト就任要請のオファーも届いた。ドラフト1位でプロ入り後、投手で鮮烈なデビューを飾り、トレードを経て、野手にも挑戦。やることはやった……つもりだった。
やけっぱちで受けた入団テスト
だが、実際に戦力外になると、不思議と充実感より野球への未練が勝る。『日本プロ野球トレード大鑑 2004』(ベースボール・マガジン社)収録のインタビューでは、当時の様子を遠山本人がこう語る。
「そんな時に『どうするんや?』って電話をくれたのが、阪神時代の先輩の中西清起さん。現役を続けたいのでテストを受けようと思うと伝えると、中西さんが阪神にテストの日程を聞いてくれると。それで後日、『3日間あるから』と教えてもらったんです」
先輩の助けもあり古巣のテストへ行くと、昔ともに阪神の近未来エース候補と期待されたサウスポーの仲田幸司も参加していた。誰もが夢を終わらせることができず、あがいている。そんなプロの厳しさを肌で感じたテスト2日目の帰り際、一枝修平ヘッドコーチから、「遠山君、3日目はちょっとピッチングを見せてくれないか?」と告げられた。
その瞬間、あぁ野手じゃダメなんだなと悟ったという。投げると言ってもファームで打撃投手をたまにやっていた程度。2年以上、ブルペンには入っていない。受かるわけないだろう……。ほとんどやけっぱちである。