姓を社名に掲げた本田と、陰に徹した藤沢

ちょうど、ソニーの井深さんと盛田さんの関係と似ているが、ソニーと違って、ホンダの場合は、言い出しっぺで技術者の本田宗一郎だけが有名になった。

本田宗一郎(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
本田宗一郎(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

その理由は、ホンダが、本田の姓を社名にしているからだけではない。藤沢さんの、社長業に没頭し、それも影に徹して対外活動を一切行っていなかった性格やスタイルにある。

高度成長期の日本経済の立役者として叙勲の対象となって当然の人だったが、藤沢さんは一切の興味を示さず、ホンダの役員たちも積極的に動かなかった。見かねて通産省の官僚が総理府に働きかけ、勲三等旭日中綬章の叙位叙勲となっている。ちなみに、ソニーの盛田昭夫は勲一等瑞宝章の叙位叙勲だ。

リーダーとフォロワーの最高の組み合わせ

本田宗一郎と藤沢武夫がいかに深い信頼で結ばれていたか?

それは、本田さんが代表取締役社長を務めていたときですら、代表者印は、藤沢さんが持ち、すべての決裁を行っていたことからもうかがい知れる。本田さんが、一度も代表取締役の印鑑をついたことがないというのは有名な話だ。

いまは、コンプライアンスと内部統制の強化で、大企業、上場企業では絶対そういうことは許されないが、懐かしき時代には、そういうエピソードがたくさん残っている。そのおかげで、本田宗一郎の間違った判断が、藤沢武夫によって修正されたり、あるいは本田宗一郎に決断させるために、藤沢武夫が促したりなど、二人の絶妙なバランスで経営がなされていた。まさに、リーダーシップとプロフェッショナルなフォロワーシップの最高の組み合わせだった。

1973年、本田さんと藤沢さんは、それぞれ代表取締役社長と代表取締役副社長から、取締役最高顧問へと、そろって現役を引退する。これは後進育成のために、藤沢さんが決断したもので、本田さんもそれに従ったものとされているが、その潔い引退劇は当時話題になった。そのときの様子を藤沢武夫が手記に残している。少し長くなるが、藤沢さんの人となりと2人の関係がよくわかるので引用させてほしい。