「世界のホンダ」にも共同創業者がいた

本田宗一郎 Honda Souichirou
1906~1991 静岡県生まれ。本田技研工業創業者。東京の自動車修理工場に徒弟奉公して、自動車の修理技術を身につける。1946年浜松市に本田技術研究所(後の本田技研工業)を創設。’48年、オートバイのエンジンと車体の一貫生産を開始、’55年国内生産1位となる。’63年軽トラックと小型スポーツカーを発表、’73年低公害エンジン「CVCC」搭載の「シビック」を発売、大成功する。’64年から自動車レースの最高峰フォーミュラ1(F1)に参加、「ホンダ」の名を世界的なものにした。


藤沢武夫 Fujisawa Takeo
1910~1988 東京生まれ。丸二製鋼所を経て、1939年日本機工研究所を創立。’49年本田技研工業常務となり、専務、副社長を経て、’73年取締役最高顧問に就任。創業直後から本田宗一郎の女房役として、経営面をすべて切り回し、本田技研の発展に大きく貢献した。

ソニーと並んで海外でその名を知られる企業と言えば、ホンダだ。いまでこそ、トヨタの車がプリウス、レクサスを中心に世界中に広まっているが、最初は、世界ではホンダのほうが有名だった。ホンダ・レーシングF1・チームを持っていたことがあるかもしれない。エンジン開発の技術で、世界の若者にあこがれられる会社の一つだった。

藤沢武夫がいなかったらホンダは育たなかった

藤沢 武夫『経営に終わりはない』(文春文庫)
藤沢武夫『経営に終わりはない』(文春文庫)

だから、これからご紹介するホンダのもう一人の共同創業者、藤沢武夫の名も、日本よりアメリカでのほうが有名なくらいだ。日本では、ホンダと言えば、本田宗一郎がつくった会社だと思っている人がほとんどだと思うが、たとえばハーバードのビジネススクールのケーススタディでは、ホンダが成功したのは藤沢武夫によるものとされている。

しかし、読者のほとんどは、藤沢武夫という名前を、はじめて聞いたんじゃないかな。それも、当然だ。お父さんかお母さんに聞いてみるといい。かれらも多分、知らない。ソニーの盛田さんの名前は聞いたことがあるかもしれないが、藤沢武夫は知らないはずだ。そのくらい知られていない。

でも、かれがいなかったら、ホンダという自動車会社は残っていなかった。本田宗一郎は、技術者としてピカイチだったけれど、藤沢武夫という影の経営者がいなかったら、ホンダは、育ちもしなければ、残りもしなかった。