引退劇の裏にあった2人のやりとり
昭和四十八年の正月に、私はいいました。
「かねてから考えていたとおり、今年の創立記念日には辞めたいと思う。社長はいま社会的な活動をされているし、どうされるかわからないが、私からいわないほうがいいだろうから、専務から私の意向を伝えてもらいたい」
が、私は本田宗一郎との二十五年間のつきあいのなかで、たった一回の、そして初めで終わりの過ちをおかしてしまいました。本田は私のことを聞くとすぐ、
「二人いっしょだよ、おれもだよ」
といったそうなのです。ほんとに恥ずかしい思いをしました。
その後、顔を合わせたときに、こっちへ来いよと目で知らされたので、私は本田の隣りに行きました。
「まあまあだな」
「そう、まあまあさ」
「ここらでいいということにするか」
「そうしましょう」
すると、本田はいいました。
「幸せだったな」
「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」
「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」
それで引退の話は終わった。
私たちの引退には誰も反対しませんでした。形だけの慰留なんてものはなかった。
「待ってました」というようなものではないでしょうか。
こうして、昭和四十八年十月に正式に引退したのですが、この二十五年というもの、本田と二人でやってこられたというのは、たいへん珍しいことだったと思っています。
それは、本田だって、私がいやになったときもあるでしょう。このとおり私は勝手ですから。役員室をつくるときも、研究所を独立させるときも、かれに相談してない。
経営にかけては、向こうより私のほうが本職なんですから。
私だって、本田がいろんなことをやっているのを、「なにいってんだ」と思うときがあります。
しかし、いずれにしても、根底では二人は愛しあって、理解しあっていた。
「これ以上はないという人にめぐり会えた」
という気持がすくなくとも私のなかにはある。
しかし、これも二十五年が限界です。それは双方ともに進歩が止まるときです。
二十五年が私たちの人生の進歩の限界点であったということでしょう。