外交的な盛田が資金調達に走った

井深さんはもともと早稲田大学の理工学部を出たかなりオタクの技術者だったので、終戦後、どうしても東芝に入社したくて、東芝を受けるも落とされてしまう。それで、かれは悔しくて、自分で東京通信工業というベンチャーを起こすわけだ。

かれの技術力はすごかったのだけれども、それが当時の東芝には理解できなかったか、あるいは、こういうやつを入れたら、たいへんなことになると思ったのか、わからない。いずれにしても東芝がかれを採用試験で落としてくれたおかげで、のちのソニーができた。

けれども、井深さんは技術開発だけにしか興味がなかったので、技術もわかって外交的な盛田さんに加わってもらえたことは本当に大きかった。なにしろ井深さんのベンチャーに加わったはいいが、最初、盛田さんはとにかく資金調達、金の工面で苦労をした。最後には、実家からたくさんお金を借りて、井深さんを支えた。だから一時期、盛田家の酒造会社が、ソニーの筆頭株主だったこともある。

ウォークマンも2人の共同作業の成果

こうして盛田さんが資金繰りの苦労を担ってくれたおかげで、井深さんはいろいろな発明に没頭することができた。ソニーを最初に有名にしたトランジスタラジオ、カセットテープレコーダー、そしてトリニトロンというすごくきれいな画像が出るテレビのブラウン管など、すべて井深さんが中心となって開発した。

ソニーの名を世界中に広めることになったウォークマンも、最初のアイデアは井深さんだったが、プロジェクトは当時ソニーの代表取締役社長を務めていた盛田さんが中心となって指揮、若手社員を中心に開発チームが組まれた。

ソニー ウォークマン TPS-L2 1979(写真=Sailko/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
ソニー ウォークマン TPS-L2 1979(写真=Sailko/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

井深さんがいなかったら、そもそもソニーは生まれなかったが、盛田さんがいなかったら、ソニーは残っていなかった。