幕府要職となったのは譜代大名だが、領地は少なめだった

実際、江戸幕府の多くのポストは譜代大名、旗本、御家人に占められ、外様大名はほとんどつくことができませんでした。いっぽう領地を見ると、外様大名では前田家、伊達家など多くの領地を持つ者もいましたが、譜代大名は最大でも30万石に満たない領地しか与えませんでした。さらに、外様大名の領国は中央政権、つまり江戸から離れた地方、特に西国に割り当てています。

のちに第三代将軍・家光の頃、参勤交代の制度が取り入れられました。大名たちに実(経済力)を使わせて、軍備に回す余裕をなくさせたのです。こうした施策によって江戸幕府は長期安定政権となり、260年間という平和を築き上げていきました。

関ヶ原の戦いから14年後となる1614(慶長19)年から翌年にかけて、二度にわたり、大坂の陣(大坂の役)が起こります。家康と第二代将軍の秀忠を大将とした幕府軍20万と、豊臣秀頼を大将に戴く豊臣軍が激突したのです。これは、家康最後の合戦となりました。

「豊臣秀頼像」
「豊臣秀頼像」(画像=養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康は豊臣家を滅ぼそうと決めていたはずだが……

まず、方広寺鐘銘事件を契機に、大坂冬の陣が開戦します。これは、家康が秀頼にすすめて再興した方広寺(現・京都市)の鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」が「家康の名前を分断し、豊臣を君として楽しむ」の意味であると、徳川方からクレームをつけられた事件です。

この“言いがかり”からもわかるように、大坂の陣は幕府がしかけた戦争です。家康はどこかの段階で豊臣氏を滅ぼそうと決めていた、私はそう考えています。しかも、戦う前から勝利を確信していました。実際、家康は鎧もつけずに大坂城を攻囲したと伝わっています。

参陣する大名たちは恩賞を計算します。秀頼の領地は65万石あるとはいえ、関ヶ原の戦いのような天下分け目の戦いではなく、しかも徳川政権が固まりつつあるため、大きな加増は期待できそうにありません。命をかけて戦うのに恩賞は少ない。また、この戦いには大義がないと考えた大名もいるかもしれません。それでは、戦意は上がりません。

いっぽう、豊臣方では浪人が集結しました。その数、10万人。なかには真田信繁や長宗我部盛親のような武将もいましたが、多くは失業した武士たちで、しかも統一された指揮系統がなく、ばらばらに戦うだけでした。攻める側は士気が低く、守る側には指揮系統がない。これが、大坂の陣の実情です。