日本に現存する最も古い天守はどこにあるのか。歴史評論家の香原斗志さんは「現時点で最古の天守は、石川数正が建てた松本城の乾小天守だろう。家康のもとを離れ、秀吉の配下になった石川数正には築城の才もあった」という――。
なぜ石川数正は家康のもとを出奔したのか
徳川家康には、駿府(静岡県静岡市)の今川義元のもとにいた少年時代からの忠臣で、酒井忠次と並ぶ右腕だった石川数正。NHK大河ドラマ「どうする家康」では第33回「裏切り者」(8月27日放送)で、松重豊が演じるこの武将が家康(松本潤)のもとを離れ、羽柴秀吉(ムロツヨシ)の配下へと出奔し、視聴者にとっても衝撃が大きかったようだ。
秀吉とのあいだの取次ぎ役だった数正は、すでに勢力も軍事力も強大化した秀吉にこれ以上対抗することが無理だと悟って、秀吉に従う必要性を家中で説き、対秀吉の強硬派が多数を占める徳川家中で浮いてしまった。そこに秀吉からの調略もあったようで、天正13年(1585)11月13日、前触れもなく家康のもとを去っている。
その後の数正だが、秀吉のもとでまず、和泉もしくは河内(いずれも大阪府)に8万石程度の領地をあてがわれた。そして、天正18年(1590)の小田原征伐後、家康が関東に移封になったのち、家康の旧領だった信濃(長野県)の筑摩郡と安曇郡に、8万石もしくは10万石の所領をあたえられた。
家康の旧領に封じられた大名たちには、家康に対して目を光らせ、いざというときの防衛線になることが求められたと考えられ、かつて家康の重臣だった数正にとっては皮肉な立場だったというほかない。が、いずれにせよ、天正18年(1590)8月、数正は松本城(長野県松本市)に入って、城の大改修に取りかかったのである。