近世城郭とそれまでの城の違い

松本にはすでに城があった。前身の深志城は一時、武田信玄が押さえ、その後、小笠原貞慶が入って名を松本城とあらため改修を加えたが、それが本格的な近世城郭へと姿を変えるのは、石川数正の入城を待たなければならなかった。

「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)
「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)[画像=中央公論社『普及版 戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』(1988)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康の旧領に配置された豊臣大名たちは、競って城を新時代の様式に整備した。

家康が三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県東部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の5カ国の領主だった時代は、天正14年(1586)に移った駿府城を別にすれば、岡崎城(愛知県岡崎市)も浜松城(静岡県浜松市)も、基本的に土塁と空堀で構築された土の城で、天守もなかったと考えられている。

対して、かつての家康の領内に配置された豊臣大名たちは、城の主要部分を石垣で固め、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や秀吉の大坂城(大阪府大阪市)に倣って、天守を建築した。信濃でも、石川数正と同時に諏訪に配置された日根野高吉は高島城(長野県諏訪市)に、小諸に配置された仙石秀康も小諸城(長野県小諸市)に、天守を建てたと伝わる。

では、石川数正はどうしただろうか。

石川数正が見てきた城

じつは、数正は豪奢な天守をいくつも目にしていたという点で、稀有な武将だった。まず天正10年(1582)5月、家康が信長に、滅亡した武田氏の旧領の駿河を賜った礼をいいに安土城を訪れた際に同行し、信長に城を案内されている。明智光秀が饗応役を務めた、あのときである。

また、翌天正11年(1583)、秀吉が柴田勝家を破って越前(福井県)を平定した際、家康の祝賀の使節としてはじめて秀吉を訪問し、建築中の大坂城を目にした。以来、取次担当としてたびたび秀吉のもとを訪れては、大坂城をなんども目の当たりにし、秀吉のもとに出奔してからは、天正14年(1586)から京都に築かれた豪奢な聚楽第も目にしたと思われる。

数正のこうした経験が、松本城を整備する際にいかされなかったとは考えられない。実際、数正と嫡男の康長は、文禄2年(1592)前後から松本城に天守を建てた。そして、それが現在も残っているのである。