徳川家康の家臣・石川数正は、なぜ豊臣秀吉のもとに出奔したのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康の忠臣と言える武将だったが、政争に敗れた後は、いつ殺されてもおかしくない立場だった。徳川家ではなく自分の命を守るための出奔だった」という――。
映画『ツユクサ』完成披露イベントに登壇した松重豊さん。4月29日から公開(=2022年4月18日東京都新宿区のテアトル新宿)
写真=時事通信フォト
『どうする家康』で石川数正役を演じる松重豊さん。映画『ツユクサ』完成披露イベントにて(=2022年4月18日東京都新宿区のテアトル新宿)

本当に家康と徳川家を守るために出奔したのか

「老体にムチ打って大暴れしましょう。私はどこまでも殿と一緒でござる。羽柴秀吉なにするものぞ。われらが国を守り抜き、われらが殿を天下人にいたしまする。殿、決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる」

家康(松本潤)が駿府の今川義元(野村萬斎)のもとにいたころからの忠臣で、徳川家臣団の要であり続けてきた石川数正(松重豊)は、家康にこういったのち、秀吉(ムロツヨシ)のもとに出奔した。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第33回「裏切り者」(8月27日放送)での話である。

数正は家臣団の前で家康に、「秀吉のもとに参上なさってはどうでしょう」「臣下に入るべきと存じます」と勧め、いわば総スカンを食らった。その後、家康を説得しきれないとわかったところで冒頭の言葉を投げ、数日後、岡崎を発った。

なぜ数正は、家康のもとを離れて秀吉の家臣になったのか。第34回「豊臣の花嫁」では次のように描かれるようだ。数正は自身が悪役になってでも、家康が強大な力を手にした秀吉と戦って滅ぼされるような事態を避けたかった。すなわち家康と徳川家を守るために、飼い殺しにされるのを承知で秀吉のもとに下った――。

しかし、数正が出奔した動機は、キレイごとだけでは語りきることができない。