家康の信頼の厚かった忠臣だが

数正が家族のほか、家康の人質になっていた信濃の国衆、小笠原貞慶の子を連れて秀吉のもとに出奔したのは、天正13年(1585)11月13日のことだった。じつは、この年の3月までに数正は、その名を「家康」の「康」の字をもらって「康輝」とあらためていた。それほど家康の信頼が厚かったということだが、混乱を防ぐためにここでは数正と記したい。

出奔する直接の動機となったと思われるのは、その直前に家康が秀吉から求められていた人質の提出を拒否したことだった。

この年の6月から7月、秀吉が越中(富山県)を治める織田信長の旧臣、佐々成政を服属させようとした際、家康が成政と手を結ぼうとしているという噂が立った。このとき織田信雄が家康に、秀吉の疑念を払拭するためにあらためて人質を出すように勧め、秀吉自身もまた、家康に人質を求めることになった。

家康側からは、小牧・長久手の戦いで講和した際、すでに次男の義伊(のちの結城秀康)と数正の子の勝千代(のちの康勝)、本多重次の子の仙千代(のちの成重)を秀吉のもとに差し出していた。それに加えて、家康の重臣の関係者をあらたな人質として送るように要求されたのである。

そして、徳川家中でこの話を推進していたのが、徳川家で秀吉との外交を担当していた数正だった。

家中の政争に敗れた意味

それまでも数正は、徳川家を存続するためには秀吉と融和するしかないという立場で、家臣団のなかでそれを訴え続けていた。ところが、酒井忠次にせよ、本多忠勝にせよ、長久手の戦いで勝ったにもかかわらず秀吉に屈することを、いさぎよしとしなかった。要するに、徳川家中は強硬派すなわち主戦派が圧倒的に多く、融和派の数正は孤立無援の状態だった。

その流れを受けて、家康は天正13年(1585)10月28日に、秀吉からの人質要求を拒否することを正式に決定。同じ日に徳川家の重臣たちと小田原の北条家の重臣たちのあいだで、起請文が取り交わされている。すなわち、秀吉との断交を決めたうえであらたな対戦を決意し、徳川と北条の同盟関係を強化したのである。

こうなると、秀吉との外交を担当し、家康との関係の安定化に尽力していた数正としては、まったく立場がない。要は、家中の政争に敗れたということで、その意味を柴裕之氏はこう記す。「康輝にとってこの敗北は、徳川氏内部での自身の立場はおろか、今後の自家の政治生命が断たれることをも意味したのだった」(『徳川家康』)。