江戸の人々はどんなことに関心があったのか。総合研究大学院大学名誉教授の池内了さんは「ネズミの飼育が盛んだった。とくに大坂ではネズミを交配させ、これまでにない珍しい模様のネズミを作ることがブームになっていた」という――。(第2回)

※本稿は、池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

『養鼠玉のかけはし 上巻』より(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)
『養鼠玉のかけはし 上巻』より、ネズミが入ったカゴを持つ親子の姿(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)

なぜ江戸時代の人たちはネズミをかわいがったのか

鼠は、一般に、人家に害を与えるので憎まれていたのだが、その姿や挙動の可愛いさもあって愛玩動物ともなっていた。鼠にもさまざまなタイプがあって、主には人家の周辺にたむろして台所の食べ物を狙ういわゆる「イエネズミ」(クマネズミ、ラットであるドブネズミ、マウスであるハツカネズミの3種)と、野外のみに棲息する「ノネズミ」(ハタネズミやアカネズミなど)がいる。

前者は貯食性・貯脂肪性が低いため、屋外の食物が不足するとヒト社会に入り込むが、後者はもっぱら畑の作物を食べていてヒト社会とはやや疎遠である。イエネズミは屋根裏の器物や衣類を齧ったり蔵の中の穀類を食べたりして広がった。もともと人間とは棲み分けしていたのだが、農業社会が発達するにつれ備蓄食料が増えたことから、鼠とヒト社会との接点が増え、鼠の生息圏が人間界にも及んできたのであった。

都市化が進行した室町時代頃から、鼠害が目立つようになった。御伽草子の『鼠の草紙絵巻』には、鼠捕り専用の仕掛けである「枡落し」のような鼠害対策のさまざまな工夫が描かれている。18世紀後半になってから発見された最も有効な鼠退治の方法は、ヒ素や黄燐、つまり「猫いらず」と呼ばれた薬を用いることであった。その薬は行商され、総称して「石見銀山」とも呼ばれたそうで、まさに銀山から採取された毒薬が使われ、鼠は駆除の対象でしかなかったのだ。

吉祥の象徴として

ところが、戯文の冊子である『鼠共口上書』には、石見銀山から鼠への申出書と、鼠からの願出書が面白く書かれている。鼠にも言い分があるというわけだ。

また、害を及ぼす鼠もいるが、人に害を及ぼさない「コマネズミ」や「ナンキンネズミ」、人に富貴をもたらすとされた「福ネズミ」もいて可愛がられている。人々は鼠に対して愛憎半々であったのだ。

というのは、鼠は種類にもよるが、おおむね1年に4~6回、各回に4~7匹も子どもを産むので繁殖力が抜群であり、厳しい環境にも負けずにたくましく生きる動物であるため、これを子孫繁栄・商売繁盛・家運興隆という吉祥の象徴として人々は大事にしたのであった。

古事記』で大国主神(オホナムチ)の苦難を鼠が助けたという昔話から、鼠が大国(=大黒)の使者として大黒信仰に結びついたという説(そのためダイコクネズミと呼ばれる)もある。また、大黒は北方の神であり、北の方向は十二支の「子」にあたり、「子」は鼠であることから大黒天と結びつき、家に住む白鼠は富貴をもたらすとして大事にされた。

事実、台所に大黒天が祀まつられ、「甲子きのえね」の日には大黒天を祀る甲子祭が営まれていた。