※本稿は、池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
江戸時代に園芸ブームが起きたワケ
二派に分かれ、花の美しさとその花を詠った和歌を競う優雅な「花合わせ」は平安時代から始まっている。実は、花はあくまでも歌の題材を提供するだけで、和歌の優劣を競う「歌合わせ」が主目的であったらしい。しかし、江戸時代には園芸文化が広まってきたこともあって、「花合わせ」は純粋に花の優劣を競うものとなり、仲間内の品評会の役割を果たすようになった。
園芸植物の価値判断に権力は介入しなかった(できなかった)から、花の愛好者たちは独自の物差しで価値が決められることになる。それとともに、花が売買されるから園芸に携わる人々の収入となり、園芸で生活する階層も増加していった。その結果として、通常の花の色や形に飽き足らない「はぐれ者」が出てくる。これまでにない色や絞りの花や、異形や斑入りや筋が入った葉など、奇品・珍品を好む気風が強まり、それらに大金を投じるようなことが起こってくる。
奇品の流行と園芸バブルについては後に話題にするが、やはり人とは違ったものを持って誇りたいとの気持ちを誰もが抱くようになるものなのだ。18世紀以後の花卉・花木ブームが、このような人間の欲望と結びついた、やや浮薄な様相を呈するようになったのは必然の成りゆきかもしれない。
菊の花ひとつに15万円もの値が付いた
正徳から享保年間(1711~36)に、キクの大輪や花の品格を競う「菊合わせ」が流行した。そもそもは、京都円山で行われた「菊合わせ」大会(1711~16年)が人気を呼び、江戸でも開かれるようになったのが発端らしい。その結果、「勝ち菊(入選した花)」の一芽に1両~3両3分(約5万~15万円)もの破格の値段が付くようになり、キクの栽培と品種改良に熱が入ったのであった。
『京新菊名花惣割苗帳』(1719年)には、金7両(約35万円)でキク一鉢が売買されたとある。この時のキクは、花の気品や風格が第一で、在来種にはない大輪や自然には見られない花弁の形状が高く評価された。「菊合わせ」では一輪だけを提出して、その花だけの評価を競ったのであった。その花は現在「丁子菊」と呼ばれる「一重あるいは半八重の菊」が大半であったらしい。
時代がずれるが、与謝蕪村(1716~83)が「菊作り汝は菊の奴かな」(1774年)という句を残している。菊合わせに狂奔する人間のおかしさを詠んだもので、蕪村らしく菊ブームから一歩退いての冷静な句と言える。何事であれブームが高じるとバブルとなり、必ずその後に弾けてバブルは消えるもので、キクブームは第4次の19世紀半ばまで断続的に継続した。