知的なサロンが誕生

続く元文の頃(1736~41)とされるが、「永島先生」としてのみしか伝わっていない、かなり身分の高い幕臣が「壺木つぼき」と呼ぶ鉢植え法を考案して、オモト(万年青)の大型品種や常緑で低木の沈丁花など、比較的地味な花卉・花木栽培を普及させたという。

「壺木」とは、小さな苗木を畑で育て、十分に根を出させてから鉢に移植する方法なのだが、ここには新しい工夫があった。縁が外に反った形の「縁付えんつき」と名づけた鉢を尾州瀬戸の陶工に命じて焼かせて、鉢植えで花木栽培を行ったのである。この縁付が人気を得て全国に広まったのだ。

さらに面白いことは、鉢植えでオモトを育てる「永島連」が形成されたことである。江戸時代には、俳諧・狂歌・小説・絵画・浮世絵・落語・博物学・医学など、さまざまなジャンルで「連」という集まりができたそうだが、園芸にも「連」があった。永島を先生と仰いで担いで、仲間内の人間が集まって品評会などを楽しんだのである。

江戸文化研究者の田中優子氏らの著作をもとに「連」の特徴をまとめると、①巨大化しない、②存続が目的ではない、③世話人はいるが強力なリーダーはいない、④費用は参加者各々の分に応じた持ち寄り、⑤全員が対等な創造者、⑥メンバーは現職にこだわらず複数の名を持つ、ということだろうか。いわば同じ趣味を持つ人間のサロンであり、身分や貧富に関係しない知的共同体と言える。

「いいところが一つもない」植物が大人気

この「永島連」に対抗して、「安養寺連」も結成されていたそうだ。享保から元文の頃、市ヶ谷の安養寺の住職であった「真和」という名の僧侶が、スギやヒノキやヒバなどの針葉樹の変わり物を集めて人気を博したのだ。

また、永島の門人である幕臣の朝比奈某(真明とすると、1726?~87?)は、江戸で温室を初めて考案・作成した人物である。植物が冬の寒さで傷むことを恐れ、床下に冬の間だけ収容する「唐むろ」を発明し、ガジュマルやソテツを育てていたという(浜崎大『江戸奇品解題』)。まさに「必要は発明の母」である。

マツバラン(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
マツバラン(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

明和年間(1764~72)になるとマツバランの流行が始まっている。『松葉蘭譜』が1836年に出版されているから、19世紀前半まで人気が持続したらしい。マツバランは花も葉もない植物で、草でも木でもなく、植物学上ではシダの仲間である。根っ子がなく、茎が二股に分かれて伸び、先端には鱗片状の突起がまばらにでき、高さ30センチ以下で、特に気を惹くようなところが何らなく、「いいところが一つもない」植物なのである。それが人におもねるところがない植物に見えたため、かえって好まれたのだろう。