1鉢1億円の値が付いたタチバナ

一方、寛政年間(1789~1801)には、「百両金」と書いて「タチバナ」(植物学上はカラタチバナ)と読ませた植物の鉢植え仕立てが人気を呼んだ。小さな白い花が咲き、冬には赤い実を付けるのだが、さほど美しくはない。より人の気を惹くとして名づけられた「センリョウ(千両)」や「マンリョウ(万両)」と比べても勝るわけではない。しかし、寛政9年(1797年)に『橘品』を始め3冊もタチバナに関する本が出版されたそうで、人気になって人々が栽培を競い合った。

カラタチバナ(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
カラタチバナ(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

タチバナが人気になったのは、葉の奇品(斑入り、奇形)があったためで、『杉浦家日記』の同年の項には、「百両金が一鉢三〇〇両や四〇〇両、種一粒が何両としている」とある。「一鉢一〇〇両は当たり前、大坂では最高二三〇〇両(約一億円)の値がついた」とも言われた。すっかり、投機の対象となってしまったのだ。むろん、やがて見捨てられることになるのだが……。

文化年間(1804~18)には、2つの園芸ブームが起こった。ひとつは、第1次アサガオブームで、『増訂武江年表』によれば、大番与力(江戸・大坂・京都の城の警護役)の谷七左衛門がアサガオの変わり種を見つけたのが発端であったらしい。

下谷の市兵衛が徒士組屋敷の御家人にアサガオ作りを伝授し、以来「変化アサガオ」と呼ばれて下級武士の内職として流行したとも言われる。アサガオについては、後の園芸バブルの項で再度立ち寄ることにする。

菊がエンタメの中心だった

もうひとつの園芸ブームは、第3次キクブームである。人々が左右に分かれて菊の花を持ち寄り、優劣を競い合う「菊合わせ」では「勝ち菊(入選)」「負け菊(落選)」を決めていた。小林一茶(1763~1827)の俳句に、「勝菊や力み返て持奴」(1814年)、「勝菊は大名小路もどりけり」(1818年)があるが、「勝ち菊」となった時の持ち主の威張った顔や、大名になったかのような高揚した気分をよく表している。この頃「江戸菊」と呼ばれる中菊が栽培されるようになり、大菊に匹敵する人気を得たそうだ。

また、1811年頃から巣鴨の染井の植木屋街で人寄せに「菊細工」が行われるようになった。最初は、スギやヒノキの薄板を曲げて円形の容器にした「曲げ物」で見場を良くしただけであった。やがてそれらをいくつか集め、白菊ばかりで富士を模し、黄菊ばかりでトラを象徴し、さらに人間の形とする菊人形が登場するようになった。歌舞伎や浮世絵の名場面を、多くの色の菊の大小を組み合わせて造型するのである。しかし、見物料を取らなかったので財政的に行き詰まり、菊人形は1816年頃には廃れたらしい。

人々を驚かせたのは「一本造り」で、1本の台木に接ぎ木をして100種もの異なった菊の花を咲かせるという、曲芸のような技術が披露され、歌川国芳(1797~1861)が「百種接分菊」という絵を残している。