徳川軍の士気は低かったが、最新兵器の大砲が効力を発揮

戦闘の詳細には触れませんが、軍事革新の視点から、大砲の使用について触れておきます。大坂冬の陣で大坂城を完全包囲した幕府軍は、イギリスから輸入したカルバリン砲や国産の大砲を昼夜問わず、撃ち続けました。その1弾が大坂城の居間を直撃、淀殿の侍女が亡くなります。これにショックを受けた淀殿は、和議を受け入れたと言われています。

なお、カルバリン砲は14キログラムの弾丸を6300メートル飛ばしたそうです。火縄銃の登場で合戦の様相は大きく変わりました。この頃には、「大筒おおづつ」と呼ばれた大砲まで使われるようになっていたのです。当時は炸裂弾ではありませんから、被害はそれほどでもなかったでしょうが、心理的効果は大きかったと思われます。

日本の軍事は質・量共に、世界のトップクラスであったことは事実です。講和条件として大坂城の二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てが決まりました。家康と秀忠は大坂から離れています。しかし、豊臣側が浪人たちを解雇せず、軍事強化をはかっているとして、ふたたび合戦が始まります。大坂夏の陣です。

しかし、堀を埋め立てられて裸城となった大坂城は、もはや豊臣秀吉が築いた難攻不落の城からはほど遠く、落城。秀頼と淀殿、側近らは自害して豊臣氏は滅亡しました。翌年、家康も亡くなっています。

「大坂城炎上」1663年
「大坂城炎上」1663年(画像=ニューヨーク公共図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

関ヶ原から大坂冬の陣まで家康は何をしていたのか

私が解せないのは、関ヶ原の戦いから大坂冬の陣までの14年間です。方広寺鐘銘事件からも明らかなように、家康が豊臣氏を滅ぼそうとしたことは間違いありません。であるならば、なぜ14年間もかけた、あるいはかかったのでしょうか。

秀吉と比較すると、この長さが際立ちます。秀吉は1582年の本能寺の変から3年後に関白となり、5年後には九州を平定して豊臣姓を得ています。6年後には刀狩を実施し、8年後には小田原征伐で北条氏を降して全国の大名を従えました。

対して家康は関ヶ原の戦い後に諸大名を従え、圧倒的な軍事力を有したにもかかわらず、豊臣氏を滅ぼすまで14年間かかっています。これについて、私のなかで合理的な答えを導き出せていません。もちろん、豊臣の力が強大で攻撃できなかった、というようなことはまったく考えていませんが。大坂夏の陣が終わり、秀吉が重視した統治、つまり政治の時代に入りました。