タレントの伊集院光さんには「ラジオの帝王」という異名がある。なぜラジオ業界でそこまでの存在感を発揮するようになったのか。社会学者の太田省一さんは「過去に報じられたニッポン放送やTBSラジオとの確執もネタにしてしまう。そうしたフリートークの面白さが、唯一無二の魅力になっている」という――。

なぜ伊集院光は芸能界で異色のタレントになったのか

いまの時代、これだけ活躍していながら伊集院光というタレントの真価は見えづらい。彼の主戦場は、テレビでもネットでもなくラジオだからだ。だがそれゆえにタレントとして唯一無二の存在感を放ってもいる。

いまや「ラジオの帝王」とまで呼ばれるようになった伊集院光の魅力と本質はどこにあるのか? これまでを振り返りつつ考えてみたい。

伊集院光が落語家だったことは、知る人ぞ知るところだろう。

1967年東京出身の伊集院が三遊亭楽太郎(のちに六代目・三遊亭円楽)に弟子入りしたのは、1984年7月のこと。本人曰く、「学校にも行かずふらふらしていた」頃のことだった(「スポニチ Sponichi Annex」2022年10月1日付記事)。

三遊亭楽大と名乗った伊集院は、1988年には二ツ目に昇進する。

駆け出しの落語家がラジオパーソナリティになった

だがその間に転機となる出来事があった。1987年、かつての兄弟子からの頼みでニッポン放送のお笑いオーディション番組「激突!あごはずしショー」に軽い気持ちで出演。「伊集院光」という芸名は、このとき落語家という素性を隠すために付けたものだった。

ところが、そこで優勝し、同じニッポン放送の土曜朝の番組にリポーターとして出演するようになる。さらに「激突!あごはずしショー」のディレクターだった寺内たけしの「オールナイトニッポン」に笑い屋として出演。そして1988年10月、「オールナイトニッポン」水曜2部(のちに金曜2部)のパーソナリティに就任した。

当時の伊集院光は「オペラの怪人」を自称し、漫談をしながら替え歌をオペラ風に歌う「ギャグオペラ」が持ちネタだった。「都立足立新田高校声楽科中退」のように虚実入り交じった経歴を語るなど、どこまでが本当なのかわからない正体不明の存在でもあった。

むろんそれは落語家であることがバレないようにするためでもあった。ただ、番組が次第に人気を集めるようになるとともに師匠である楽太郎の耳にも話が伝わり、結局落語のほうは自主廃業し、タレントとして活動していくことになった。1990年頃のことである。