なぜ落語家・立川談志は名人と呼ばれるのか。作家で落語立川流元顧問の吉川潮さんの著書『いまも談志の夢をみる』(光文社)より、国会議員時代の立川談志が「芸に開眼した」というエピソードを紹介する――。
笑点に対し談志が思っていたこと
68年になると、〈談志ひとり会〉開催は年4回に激減した。マスコミの仕事が忙しくなったからだ。テレビのレギュラー番組は『笑点』の他に2本、ラジオが1本、映画出演が4本と多忙を極めた。69年は6回開いた。
そして、11月に『笑点』を降板する。『金曜夜席』の頃のように、大人に受けるブラックジョークをやりたい談志に対し、放送時間が日曜夕方になったのだからそれは困る、と反対する他のメンバーやスタッフ、スポンサーと対立したのが原因と言われる。
降板以後、談志はスポンサーだったサントリーの商品を絶対飲まなかった。よほど腹に据えかね、根に持っていたのだろう。
自分が企画し、人気番組にした『笑点』が、その後50年以上も続くとは、思ってもみなかったはず。番組の40周年の年、私にこう漏らしたものだ。
「俺はとんでもない化け物を作っちまったのかも知れないな」
自分が思い描いた大喜利とは、まるで違った方向に至ったにもかかわらず、高視聴率を誇る『笑点』が、創設者の目にはモンスターに映ったのだろう。
立川談志はなぜ選挙に出馬したのか
1969年12月に衆議院選挙があり、談志はいきなり立候補を表明した。当時は中選挙区制で、出馬したのは中央区、台東区、文京区を含む東京8区。その理由を、私が聞き役を務めた『人生、成り行き』(新潮文庫)の中でこう語っている。
「立候補はまったくの興味本位でした。(中略)折角なんだから、酒が美味くて、女がキレイで、土地が高い所から出ようじゃねえか。だから銀座から出よう。この発想はどこから来たかと聞かれたら、直感からだ、そして感じたものをそのまま実行するのを英知という、と」
組織に頼らない選挙にもかかわらず2万票近く集めたが、惜しくも落選。私が大学を卒業した1971年の6月に行われた参議院選挙に全国区で立候補して当選、雪辱を果たした。