昨年、89歳で石原慎太郎氏が亡くなった際、中国紙などは「右翼政治家」「軍国主義者」などと評した。そうした評価は正当なものなのだろうか。このほど『太陽の男 石原慎太郎伝』(中央公論新社)を上梓した、元東京都知事で現参院議員の猪瀬直樹さんに聞いた――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川徹)(前編/全2回)

「副知事をやってくれないか」最初は断るつもりだった

――なぜ「作家・石原慎太郎」について書こうと思われたのですか。

そもそものきっかけは、ぼくが東京都の副知事を引き受けた16年前のこと。

2007年5月に石原さんに「会いたい」と連絡をもらって、赤坂の料亭で会ったんだよね。『ペルソナ 三島由紀夫伝』という著作があるぼくにとっても、三島と交流があった石原さんと話してみたかった。

20人が座れそうな座卓にふたりっきりになると、「副知事をやってくれないか」と石原さんに頭を下げられた。小泉政権下で、4年間も道路公団民営化に取り組んで疲れ果てて、物書きに専念しようと考えていた時期だったから、最初は断ろうと思ったんだよ。

ただ石原さんの口説き方がとてもうまくてね。「猪瀬くん、ひらめくんだよ。ぼくは都知事になってから7本の長編を考えた。いろいろと思いつくものだよ」と。

確かに、都政に関わったからといって、都庁をテーマにした物だけを書かなければならないわけではない。ぼく自身も体験的に分かっていたけど、物書きのひらめきは、緊張感から生まれる。緊張感がなければ、いい仕事はできない。ある意味では、それがプロの物書きの極意とも言える。

石原さんの言葉に「なるほど」と惹かれて、副知事を引き受けた。

猪瀬直樹氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
結局のところ「忙しくて書くのを忘れてた」という猪瀬さん。『火の鳥』を上梓した石原さんに「猪瀬さん、俺、書いたよ」と声をかけられたときのことを「しまった。そういえば約束したんだよなと思ったよ」と振り返る。

根源にはいつも「作家」が潜んでいる人だった

それに、石原さんは昨年亡くなる間際までずっと書いていたでしょう。

絶筆』が発売されたのは、亡くなって9カ月が過ぎた昨年11月。石原さんは最期の最期まで作家だった。本当に大したものだ、とひとりの物書きとして感心させられたんだよね。

にもかかわらず、作家としての石原さんの評価は必ずしも高くない。

石原さんが亡くなったあと、編集者から石原さんについて書かないか、と声をかけられた時、はじめは断ろうと思った。けど、素の石原さんを知っているのはオレくらいかな、と考え直して引き受けた。先入観にとらわれずに、作家としての石原さんをきちんと評価できればな、と。

東京都知事の辞職が決まった時の石原慎太郎氏と、副知事(当時)の猪瀬直樹氏=2012年10月31日、東京都庁
写真=時事通信フォト
東京都知事の辞職が決まった時の石原慎太郎氏と、副知事(当時)の猪瀬直樹氏=2012年10月31日、東京都庁

――猪瀬さんは『太陽の男』で〈石原慎太郎という人物にまつわるイメージから生じている『どうせ大した作家じゃないんでしょ』という予断が薄く広く共有されており……〉という評論家の栗原裕一郎さんの言葉を引用していますね。

石原さんの代表作は芥川賞を受賞した『太陽の季節』だけど、それ以外にもいい作品はたくさんある。とくに『亀裂』は、三島の『鏡子の家』に影響を与えるほどの作品だった。

石原さんはデビュー以来、作家として毀誉きよ褒貶ほうへんにさらされてきた。政治家になって好き勝手しゃべっているから、作家として評価がされにくかったんだろうけど、ぼくには石原さんの言動の根底には「作家」が潜んでいるように感じていた。