三島研究者たちが見落としていること
――だから石原慎太郎も三島由紀夫も、一般的な小説家という枠組みでは捉えられないわけですね。『太陽の男』では、2人の対立についても詳しく描かれていますね。
三島を研究する人は、石原慎太郎という人物をまったく意識していないでしょう。眼中にないと言ってもいいくらい。
なぜ、三島は自決にいたったのか。そこに、石原さんはどう関係したのか……。
ぼくはここが重要なポイントだと思っている。もちろん自決の原因のすべてが石原慎太郎とは言えない。でも、三島は石原さんを強く意識していたのは間違いない。三島は、作家としても、ひとりの人間としても、後ろから迫ってくる石原さんの足音に耳を澄ませていた。
それは、三島が自決する2カ月前に刊行された『尚武のこころ』という対談集を読むとよく分かる。『尚武のこころ』には、石原さんをはじめ、野坂昭如、寺山修司、鶴田浩二、林房雄、堤清二ら、10人のそうそうたる有名人や文化人が登場する。あとがきで、三島はわざわざ石原さんの名前だけを出して、こんなふうに書いている。
〈非常に本質的な重要な対談だと思われたのは、石原慎太郎氏との対談であった〉〈旧知の仲ということにもよるが、相手の懐に飛び込みながら、匕首をひらめかせて、とことんまでお互いの本質を露呈したこのような対談は、私の体験上もきわめて稀である〉
「君が代」ではなく「我が日の本」
この対談で、日本の守るべき価値について「天皇制」と語る三島に対し、石原さんは「自由」と話し、さらに日本の風土に言及した。立脚点が異なる石原さんは、日本の伝統をつくったのは「天皇制」ではなく、縄文時代から続く北海道から沖縄までの荒海と峻厳な山々だと主張した。「天皇制」は稲作文化が始まって以降に誕生したのだから、と。
だから、石原さんは東京都の式典などで「君が代」の斉唱があるたび「きみがあよおは~」とすべきところを「わがひのもとは~」と必ず替えて歌うんだよ。「君が代」ではなく「我が日の本」。
つまり石原さんは、天皇の治世ではなく、列島の風土こそ守らなければならない日本だと考えていた。石原さんについて改めて調べみると、ここに2人の本質的なすれ違いがあったのではないかと気づかされた。
石原慎太郎と三島由紀夫――2人の作家は、最後まで互いに影響を与え合ったライバルだったんだ、と。(後編に続く)