思わず涙したある演目
談志は国会議員になっても、落語をおろそかにするような人ではない。紀伊國屋ホールでの〈ひとり会〉は毎月開催し、目黒の権之助坂に「目黒名人会」という寄席を作り、自ら出演するのはもちろんのこと、師匠連に出演を依頼して番組を組んだ。
72年から73年の2年間、私は一度も談志の落語を聴いていない。金銭的に余裕がなかったのと、夜のアルバイトで忙しかったからだ。久しぶりに紀伊國屋ホールへ出向いたのは74年1月の〈談志ひとり会〉だった。そこで「火事息子」を聴いて目が覚めた。親子の情愛を描いた人情噺で、親不孝な息子を案じる母親が自分の母親と重なり、気が付いたら泣いていた。
これほど心を打ち、魂を揺さぶるような感動がある落語の素晴らしさを改めて認識した。終演後、「落語の魅力を人に伝える物書きになれたら」と、思いながら帰途についた。談志が進むべき道を示してくれたと言っていい。
落語界には、談春が「芝浜」を聴いて弟子入りを決意したみたいに、あの師匠のあの噺を聴いて道を決めたということがよくある。私の場合は談志の「火事息子」を聴き、落語について書く決心をしたのである。
38歳の談志がインタビューで語ったこと
放送作家として一本立ちして、構成台本を書く仕事を始めた矢先、大学の同窓、M君が、「ライターになりたいなら、新聞記者を紹介しようか」と、彼と同郷で高校の先輩である報知新聞の野球記者、瀬古正春さんを紹介してくれた。
元ジャイアンツの番記者で、長嶋茂雄の信頼が厚いという。傍ら、新宮正春のペンネームで小説を書いていて、小説現代新人賞を受賞している。
瀬古さんは私を文化部長のところに連れて行き、「演芸に強いそうですから戦力になると思います」と推薦してくれた。当時、報知には演芸担当記者がおらず、演劇担当の安達英一さんが兼務していた。
私は安達さんの下に付く形で記事を書くことになった。安達さんのお父上は東宝映画のプロデューサーで、談志が出演した『落語野郎シリーズ』のプロデュースをした方。不思議な縁である。
1974年9月から、「寄席通」というコラムを書かせてもらえることになった。演芸に関する内容なら何でもいいという。無署名で掲載は不定期、原稿は安達さんのチェックを受けるのが条件だが、26歳の駆け出しライターには願ってもない仕事である。1回目は古今亭志ん生の一周忌法要のリポートで、2回目が念願の談志のインタビューだった。
取材場所は参議院の議員宿舎で、部屋を訪ねると秘書が待っていて、間もなく談志が弟子を引き連れ入ってきた。国会議員になって3年目の38歳。細身のスーツに細いネクタイをして、売れっ子芸人特有のオーラを放っていた。中学生の頃からファンだった落語家と対面して、ひどく緊張したのを覚えている。