「かわいそうランキング」という言葉

ツイッターで「かわいそうランキング」という言葉を知った。今では多くの人が使っているネットスラングであるが、もとはツイッターアカウント“白饅頭”こと御田寺圭氏が提唱した概念であるらしい。御田寺氏の著作『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』(イースト・プレス)冒頭には、彼の実体験として、こんなエピソードが紹介されている。

日本の道路
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彼は学生時代、ホームレスのおじさんと親しくなった。彼の利用する駅の前でも『ビッグイシュー』を売っているホームレスが目に留まる。あるとき、彼は大学の同級生との会話のなかで、『ビッグイシュー』のことを話題にする。ところが彼の同級生は、──おそらく御田寺氏と同じ駅を利用していたにもかかわらず──ホームレスが『ビッグイシュー』を売っている光景など見たこともないと答えたのである。そのとき御田寺氏は実感したという。人はたとえ視界にホームレスが映ったとしても、見えてはいないのだと。

『ビッグイシュー』を売るホームレスは、彼と友人が暮らすような都市部であればそれなりに見かけるはずだし、その友人も見ているはずなのだが、視界に入っても見えていない。すなわちホームレスは、御田寺氏の表現によるならば「透明化された人びと」なのである。彼はこの原体験を契機として、人が「かわいそう」と感じる対象は限られているという事実を、さまざまなデータを用いて語るのである。

追い詰められているのに同情されない人々

御田寺氏の見解には反論も多い。わたしもときに、彼のフェミニズムやリベラリズムへの厳しい批判にはついていけないこともある。しかしたしかに彼の言うとおり、ホームレスに限らず「かわいそう」という感覚をまったく喚起しない、だがじつは追い詰められている人々は存在する。

不可視化された存在として彼がおもに指摘するのは中高年男性である。わたしはそこに中高年女性も含めたい。ツイッターでの議論は、フェミニズムにしてもアンチフェミニズムにしても、若い男女のことが話題になっているケースが多いからである。

いずれにせよ御田寺氏から、わたしは自分が微塵も気にかけていない人々がいることを教わった。(※ここでは「かわいそう」という語を用いているが、必ずしも目上の者が憐れんでやるという意味のみを表しているのではなく、より広義に、他人への共感や痛みなど、他人に心を動かされること全般を「かわいそう」という日常語に託していると考えていただきたい)