「困っている人のために行動する」ことの難しさ
わたしは相手の話を聴く。基本は傾聴することが、相談者を前にしてわたしのなすべき第一の仕事である。だが、聴くということは、動かされるということである。相手の話が深刻であればあるほど、「そうですね、たいへんですね」とうなずいておしまいとはいかなくなる。背中がむずむずしてくる。はらわたの据わりが悪くなってくる。なにかをせずにはおれなくなるのである。それで、専門家の窓口に繋いだり、その窓口へ向かう本人に同行したりする。
だが問題は、相手がそんなことをこちらに求めているか否かである。わたしが具体的に行動を起こすのは、相手との信頼関係ができたと思うときである。なぜなら、わたしが行動することによって生じるなんらかの変化を、相手が恐れることもあるからだ。
今、つらい。つらいから牧師に話しに来た。だけど、現状を今すぐ変えたいわけではない。ただ話を聴いてもらいたかっただけ。今はなにかを変えることさえしんどい。どんな方向に変わることができるのか、イメージする気力もない……そんな状態の人に対してこちらが勝手に動いてしまったら、相手の不信を招き、むしろ傷つけてしまうだけである。そもそも、今こそその時と思い行動を起こしてみたら、信頼関係ができたと思っていたのはわたしだけだった、ということさえ少なくない。
「共生社会」というきれいな言葉を超えて
パラリンピックのニュースを毎日なんとなく観ていた。障害を乗り越える。障害を生きる力そのものとする。スポーツにみなぎる命のすばらしさ。街頭インタビューでは、
「共生社会について考えた」
「障害なんて関係ないと思った」
というような意見が聞かれる。インタビューに答える人に、わたしは意地の悪い質問をしたくなる。
わたしが出遭う人のなかには、幾重もの壁に阻まれ、そもそも頑張るとはなにかという問いさえ途方もなく、つねに不機嫌で、みなぎるなにかというイメージからは程遠い人も多いんですよ。そういう人が、あなたのそばにもいませんか。共生社会について考えるなら、一流のアスリートを見るのもいいけれど、まずは「この人、ほんとうに嫌な人だな」という感情を避けられない人とどうやって生きていけばいいのか、そこから考えてみませんか。障害なんて、ほんとうに関係ありませんか。当事者みんなが自分の障害を前向きに捉えていると思いますか。わたし独りでは、よい知恵が浮かばないのです。